いつもいつも、突然だった。
腕を、髪を掴まれる。
襟首を引き寄せられる。
無理矢理立たされる。
そこにいろと押さえつけられ、早くしろとせかされ、うるさいと殴られて罰を受けた。
「冷えてきたから、これ」
てっきりコーヒーだと思っていたら、入っていたのは白く少しどろりとした液体だった。
「甘酒」
「――飲んだことないな」
「そうなんだ? 私は結構好きだな。体が芯から温まる感じがして」
独特の香りが鼻をつく。
一瞬の躊躇のあと口に含むと、少し粒が残る独特の感触に戸惑う。だが、たしかに味は悪くなかった。
甘さと温かさがゆっくりと喉を通り、胸に落ちていく感覚が分かる。
じわりと広がるそれは不思議な安堵を呼び起こした。
「寒暖差が激しいから体がついていかないね」
なんてことのない、ただの会話。
「夏は冷やしても美味しいし、こうやって温めても美味しいから常備しといてもいいかな。今度大きいパック買ってもいい?」
「好きにしろ」
「美味しかった?」
「悪くない」
正直、好きな味だった。
「ん、じゃあ今度買ってくる」
半分独り言のようなものなのだろう。だが端々に相手を·····つまりは私を気遣うニュアンスがあることに、ある意味感動を覚える。
――愛を一身に受けて育つと、こうなるのか。
はかない雪粒を両手で受け止めるような。
落ちそうな花びらをそっと包み込むような。
産まれたばかりの子猫を毛布でそっとくるむような。
そんな柔らかで、あたたかな感情。
私には決して与えられなかったものが、私にはついぞ育たなかったものが、目の前にある。
失いたくないと、心の底から思った。
END
「そっと包み込んで」
古い細胞は日々死んで、新しい細胞が生まれ続けている。昨日の私とまったく同じ私はどこにもいない。
クローンの私が出来たとして、彼女の細胞も日々生まれ変わり続けているのなら、たとえクローンだとしてももうそれは私とはまったく違う存在になっている気がする。
昨日と違う私は昨日と同じ気持ちで好きな本を読んで、仕事をして、推しのXを見ている。
もし、古くなって死んでいった細胞の中に気持ちの欠片が混ざっていたら、同じ気持ちだと思っている私の感覚自体が勘違いなのだろうか。
人を構成する細胞が日々生まれ変わっているのなら、その細胞から生まれた臓器である脳から生まれた感情も、日々生まれ変わっているのだろうか。
好きという感情の生まれる過程は誰にも分からない。
そしてその感情の消えていく過程も·····。
END
「昨日と違う私」
日が昇る。
暗い町に光が広がり、高層ビルがシルエットとなって浮かび上がる。
窓越しにそんな景色を見つめていると、肩口に何かが寄りかかる気配がした。
「おはよう·····」
「おはよう」
同居人はまだ覚醒しきっていないらしい。
長い睫毛に縁取られた瞳は、閉じようとするまぶたに必死で抗っているようだった。
「コーヒー、私の分もある?」
「ああ」
「ありがと」
どこか間延びした声でそう言って、同居人はゆっくり身を離す。ふらふらとした足取りでキッチンに向かう姿を見送って、また窓辺へと視軸を移すと、金色に輝く太陽がビルの谷間から顔を出すところだった。
輪郭のはっきりしない太陽は、放射状に広がる金色でたしかにそこにあると実感させる。
触れることの出来ない、だがそれでもそこにある存在感は見つめる者の胸に不思議な感慨を呼び起こした。
「·····」
愛、とか。
形の無いものが心の中に満ちていく感覚は、もしかしたらこういうものなのかもしれない。
少しぬるくなったコーヒーを飲みながら、男はそんな事を思った。
END
「sunrise」
〝はたらけど はたらけど なお我が暮らし楽に ならざり ぢっと手を見る〟
約100年前、石川啄木が歌ったこの歌を2025年に生きる私がこんなにも身につまされて感じるなんて、想像出来なかった。
極端に贅沢してるわけでもない。
給料が低いわけでもない。
ごくごく普通に暮らしているだけなのに、常にギリギリなのはなぜだろう。
怒らなかったからだろうか。
声を上げなかったからだろうか。
変化を恐れていたからだろうか。
100年前の石川啄木は何を思ってこの歌を歌ったんだろう。
「しんどいなぁ·····」
青すぎる空は何も答えてはくれず、見上げたまま吐き出した小さな呻きは誰にも聞かれず空へと溶けた。
END
「空に溶ける」
小首を傾げて君が言うから。
「どうしてもあの靴が欲しいの·····」
赤いリボンがついたヒールの高いパンプス。
僕は難しい名前のそれを大事そうに抱き締める君の笑顔に満たされた。
上目遣いで君が言うから。
「どうしても食べてみたいな、あのケーキ」
ピンクのクリームで薔薇を象ったケーキを、僕は君の誕生日に買って驚かせた。
君の「どうしても」に僕は勝てない。
パンプスも、ケーキも、ネックレスも、ワンピースも、君が「どうしても」という言葉と共に欲しがるのなら、いくらでも買ってあげたかったし、そうしてきた。受け取るたびに君は目をキラキラと輝かせて、にっこり笑って「ありがとう」と言ってくれた。
君の「どうしても」に僕は勝てない。
やがて貯金は底が尽きて、消費者金融に手を出した僕はどうにもならないところまで落ちきっていた。
僕の服がどんどん安物になっても、僕の髪がどんどん伸びても、僕の食がどんどん細くなっても、君の「どうしても」は止まらない。
いいよいいよ。いくらでも。
僕からいくらでも奪っていって。
だって気がつけば僕も、君の「どうしても」を「どうしても」叶えてあげたいという病に侵されてしまったのだから。
涙を浮かべて君が言うから。
「どうしても·····世界で一番綺麗な赤を、見てみたいの」
いいよいいよ。いくらでも。何度でも。
その手を僕に、さぁ、振り下ろして。
どうしても止められなかった僕達の肥大した欲望は、僕達が一番望む形で終わっていった。
END
「どうしても·····」