不意に甘い香りが漂ってきて、男は足を止めた。
そもそも歩いていたここがどこかも、何故歩いていたのかも、男には分からない。
ただ嗅いだ覚えのあるその香りに、男はいつのまにか自分が〝彼の領域〟に迷い込んでしまったのだと気付いた。
「――また貴方か」
「そうだよ」
噎せ返る甘い匂い。
突如として咲き乱れる花々。
「私といても楽しいことなんか無いだろう」
「そんなことないよ。君のもたらしたもの、君が迎えた結末、どれも興味深い」
「あの方の生を貴方の娯楽の為に消費されるのは我慢ならない」
「うん、分かってる。だから君に会いに来た」
「どういう――」
「ヒトの心を持たない私に、教えて欲しいんだ。叶わぬものと分かっていても、とめられなかった心·····というものを」
風が吹く。
花びらが舞う。
甘い香りがかき消される。
気が付けば、そこはいつもの通りで。
いつもの通りに、見慣れぬ花屋がある。
「――」
その小さな灯りに誘われるように、男は歩き出していた。
END
「花の香りと共に」
言葉が通じない。
意図を汲んでくれない。
整えていたのを乱される。
簡単に物を失くす。
汚す、乱す、変える、壊す。
こちらが丁寧に丁寧に、少しでも美しく、少しでも効率的に、少しでも楽に出来るようにと考えておいたものを簡単に壊されると、ふつふつとイライラが湧き上がる。
そしてその相手が全く意に介さない様子で笑いかけてきたりすると、ざわめきが最高潮に達する。
私の心が狭いのだろうか。
私が考え過ぎなのだろうか。
〝繊細さん〟という言葉があるけれど、社会の中で生きていく以上、多かれ少なかれそういう向き合い方は必要なのではないだろうか??
END
「心のざわめき」
願いを叶える奇跡の杯、なんて本当はどうでもよかった。国に繁栄をもたらす至宝、そんなもの、本当は存在しないことなんて分かっていた。
それでも探し続けたのは、旅を続けていれば見つけられると思ったからだ。
奇跡をもたらす何か、ではなく、私達の内側から変わっていく為の何か、を。
探して、探して、探し続けて。
自分の中から何かが変わっていくのを信じて。
帰り着いた果てに何かを見つけられるのを信じて。
幸せは、すくそばにありました。
なんて、まるでおとぎ話のような結末を。
みんなが願った筈なのに、気が付けば誰も彼もが一人きり。廃墟の中に、荒野の中に、冷たい海に、一人きり。
みんなが何かを間違えて、みんなが何かに夢を見て、みんながみんな、いなくなった。
END
「君を探して」
透明でいることに耐えられるのは、よほど強い自我や感情がある者だけだろう。
自分が確かにそこにいるのに、相手にも見えているはずなのに、まるでその場に存在していないかのように素通りされる。
私はここにいます。
私はここで生きています。
私の声を聞いてください。
私の顔を見てください。
私の感情を知ってください。
言葉にせずともそう訴えていた彼女を、誰も彼もが〝いないもの〟として素通りした。
その孤独を、誰も彼もが知らないふりをして見過ごした。今ではもう、彼女の顔も、声も、瞳の色も·····誰も思い出せないでいる。
透明であるということは、存在しないということに等しいのだ――。
END
「透明」
「何度も何度も、彼はこうして終わりと始まりを繰り返すんだろうね」
凪いだ湖面を見つめたまま、男は静かにそう呟いた。
鏡のように静まり返った湖はただそこにあるだけで何も答えない。男の隣に佇む女はそんな湖と、男を微笑みながら見つめている。
「生きとし生けるもの、みんなそうじゃない?」
白いドレスの裾がわずかに濡れている。
「何かを終わらせて、何かを始めて、またそれを終わらせて·····そうして営みを繋いでいくものでしょう?」
「それは確かにそうだけど、彼は少し事情が違うだろう? 〝君の愛し子〟は」
含みをもたせた男の言葉に、女は笑みを深くする。
静かな湖面にどこからか舞い落ちた花びらが一枚、音も無く漂っている。その微かな揺らめきが、鏡の
ような水の膜に確かに働く力の存在を知らせている。
「あの子は愛して、愛されるように〝つくった〟の」
女の答えもまた、含みを持たせたものだった。
「唯一無二の愛を見つけて、終わらせて、その美しさを私に伝えて。そうしてまた別の形の愛を始める。あの子は〝そういう存在〟なの」
女の声は歌うようで、だがどこか不吉な響きを持っている。男はそんな女の横顔を見つめて、深く長い息を吐く。
「·····彼はソレに気付いてないんだね」
「そうね。でも気付く必要なんて、無いでしょう?」
いつの間にか、女は湖に腰まで身を浸していた。
だがそれでも男と交わる視線の高さは変わらない。その歪さを、男はとっくに理解している。
白いドレスは鱗のように変質し、女の肌と一体になっている。
舞い落ちた薄紫の花びらが、女の指の先でくるくると回っている。
「次はどんな素敵な〝愛〟を見せてくれるのかしら?」
女の声に孕んでいたのは、慈愛などでは決してない――。
感情の無い男でも、それだけは分かった。
END
「終わり、また始まる」