「バイバイ」
そう言って彼女は〝文字通り〟僕の前から姿を消した。
あまりに一瞬のことで、僕には何も出来なかった。
「え」
と言って、足を一歩前に出して、そこで止まった。
彼女の長い黒髪が、未練のように僕の視界に残っている。彼女のではなく、僕の未練。
SNSで知り合って、ここ数年は彼女だけが僕の話し相手だった。家族ともクラスメイトともうまく付き合えない僕に、私も同じだと言った彼女。
地獄のような毎日を、うんざりだと言った彼女。
数年そんなやり取りをして、初めてリアルで会おうという話になって、待ち合わせをした。
黒髪が綺麗な、びっくりするような美少女が、僕のユーザー名を呼んだ。
SNSの延長のようなやり取りをして、とあるビルの屋上で夜景が見たいと言った彼女。
手すりから身を乗り出して、僕を振り返って、たった一言。
「バイバイ」
あの瞬間の、彼女の笑顔が忘れられない。
その後はまるで夢の中にいるようで、真っ赤に染まった地面を見てる間も、警察に事情を聞かれている間も、ふわふわとした感覚にとらわれたままだった。
地獄のような毎日を、彼女は自ら終わらせた。
あの笑顔の意味を、僕はそうとらえている。
僕はその終わりを見届ける役を与えられたのだ。
「バイバイ」
彼女の声が、僕の耳の奥にまだ残っている。
END
「バイバイ」
「何度も思い出しました」
彼はそう言いながら、一つ一つ旅装を解いていく。
大きな荷を床に置き、ローブを椅子に掛け、靴紐をほどく。
彼が動くたび、砂埃が舞って光に反射する。
キラキラと、汚い筈の砂埃が綺麗に見えるその瞬間が、私にはとても尊い時間のように思えた。
「大切な人達のことを、何度も」
髪を留めていたリボンをほどくと、長い髪がふわりと広がる。彼の白い髪が陽に透けて、まるで薄いレースのようだ。
「苦しくて、何度も諦めようと思いました」
彼の旅が長く、途方もなく長かったことを知っている私は、その言葉に応える術を持たない。
「何もかもを投げ出して、もう全部報われなくてもいいと、とにかくこの足を止めて休みたいと、何度も思いました」
だが彼は、止まらなかった。
「そのたびに、思い出したんです」
「大切な人達の、声を」
「大切な人達の、笑顔を」
長く苦しい旅を終えた彼は、だが達成感のようなものはなく、ただ旅を通して得た万感の思い浸っているようだった。
「夜は長いよ」
私は短くそう言って、彼の前にコーヒーを置く。
「長かった君の旅を、聞くには丁度いい長さだろう」
彼はそこでよくやく笑ってこう言った。
「気が利きませんね。私が紅茶党だともう忘れてしまいましたか?」
緑の瞳が悪戯っぽく輝いている。
END
「旅の途中」
僕のまだ知らない君を、いつか知る日が来るのかしら?
それは嬉しいことなのかしら?
それとも悲しいことなのかしら?
僕のまだ知らない心を、たくさん持っている君。
僕のまだ知らない歌を、たくさん知っている君。
僕のほんとうの気持ちを、小さく笑って受け流す君。
もし君に拒絶されたら、僕は僕のまだ知らない心を、知ることになるのかしら?
僕はほんの子供だけれど、君を好きな気持ちはほんとうで、どうしたらほんとうだと伝わるのか、ずっとずっと分からないでいるけれど。
僕はこの伝え方しか知らなくて、君がそれで困っていることは知っていて。
いつかこの気持ちが届くと信じて、ずっと好きだよと言い続けて。
ねえ、僕のまだ知らない君。
いつか出会えたら、きっと笑っていてね。
END
「まだ知らない君」
夏になると恋しくなるし、冬になると避けたくなる。
季節が理由なのもあるけれど、それだけではない気もする。
夏のバカンス、フェス、花火大会といった浮かれた空気に、ほんの少し気後れする瞬間があって、そんな時に逃げるように日陰に飛び込むのだ。
逆に冬になると肩を竦めて早足で歩く人や、雪が降る直前のどんよりと重い雲に気が滅入って、更に薄暗い日陰から逃れるように遠のいてしまう。
ずいぶんと身勝手だと思うけれど、黙って受け入れてくれる場所の一つくらい、あってもいいはずだ。
END
「日陰」
クローゼットを開けると不意に何かが降ってきた。
床に落ちたそれを拾いあげ、軽くほこりを払う。
それは同居人が夏の間使っていた麦わら帽子だった。
「·····」
猫の額ほどの庭だが、同居人はそこでの時間を割と気に入っているようだった。
伸びてきたひまわりに水を撒く横顔。
しゃがんで草むしりをする後ろ姿。
蝉の死体を見つけた時の、小さな声。
季節が変わっても小さな庭には何かしら花が咲いていて、彩りを添えていた。仕事の合間に時々庭いじりをするのが彼の気晴らしになっているらしい。
私はといえば、自分では直接何かを育てることはせずもっぱら彼の手伝いをするだけだ。
最初に植えたチューリップが咲いた時の、彼の微笑が忘れられない。
その時私の心に初めて浮かんだ、あたたかくやわらかなものの感覚も·····。
窓へ向かう。
冬の庭には小さな薄赤い花が咲いている。
彼に名前を聞いたが忘れてしまった。細いリボンのような花びらが冬の風に揺れている。
休みの日にはまた手入れをする彼の姿が見られるだろう。
「ただいま」
続く名を呼ぶ声に、振り返る。
真冬に部屋の中で麦わら帽子をかぶる私に、同居人は目を丸くして·····次の瞬間弾けたように笑った。
END
「帽子かぶって」