壁一面に本が並ぶ小さなカフェで、私は彼と出会いました。街路樹がすっかり葉を落とし、道を歩くたびにサク、サク、と音がする季節でした。
初めて入ったそのカフェで、コーヒーを片手に本を読むその姿に、私は目を奪われたのです。
彼の姿が見える席についた私は、コーヒーを注文すると棚から大きな画集を取り出してページを捲りました。ええ、それはただのポーズです。私は本を読むふりをして、彼の姿を盗み見ていたのでした。
スラリとした長身、ページをめくる長い指、黒縁眼鏡にかかる、珍しい色をした髪·····そのどれもが私を酷く惹き付けて、心をざわつかせたのです。
一時間ほどでしょうか、そうして彼を見つめていた私はあることに気付いて目を見開きました。
「――」
ふわふわした茶色の尻尾。それが彼の背後で揺れていたのです。
見間違いかと思いました。けれどそれは確かにあって、本を読む彼の表情に合わせてピンと立ったり、左右に揺れたり、くにゃりと垂れたりしていたのです。
私以外の他の客は誰も彼の尻尾に気付いていないようでした。好奇心に駆られて、でしょうか。いえ、きっとその前から、私は彼に惹かれていたのだと思います。
私は自分の席から立ち上がるとゆっくり彼に近付きました。
「·····」
彼は夢中で本を読んでいます。近付いてみても、やはり彼の背後にはしっかり尻尾がついていました。
私にようやく気付いたのか、彼がゆっくり顔を上げます。私は少し屈んでソファに座る彼の耳に唇を寄せて、そっと囁きました。
「尻尾が見えてますよ」
黒縁眼鏡の奥にある、珍しい色をした瞳が大きな見開かれました。
「――っ、」
整った美貌がみるみる真っ赤になります。
こうして、狐の彼と私の奇妙な関係が始まったのでした。
END
「秋🍁」
目の前には古い瓦屋根が二軒。
その向こうには新築の鉄筋コンクリート。
斜め前は空き家で、壁には蔦が絡まり草が伸び放題。
そしてその家々の隙間を縫うように電線が走っている。それが、窓から見える景色の全て。
変わり映えの無い景色。
でも時々猫が屋根伝いに歩くのを見るのは好きだった。そして、夜。
何の変哲もない景色は一変する。
星空の下、瓦屋根もコンクリートの屋根も、伸び放題の草も真っ黒なシルエットになって繋がる。古びた空き家のシミも見えなくなって、町全体がやけに綺麗に見える。
そんな静かな夜。音も無くやって来る一匹の野良猫の、イエローゴールドの目だけが輝く。
夜は町を綺麗にしてくれる。
そんな気がする。
END
「窓から見える景色」
形の無いものは目に見えない。
目に見えないからあるかどうか分からない。
大切にしなきゃいけないのに、それは些細なことで崩壊し、流れ出し、消えてしまう。
優しさや、愛情が、怒りや嫉妬や僻みで押し潰されてしまう。
だから私は本を読む。
本を集めて、棚に並べて、目に見える形でいっぱいいっぱい本を積む。
形の無いものを育む為に。
形の無いものが確かにあるのだと忘れない為に。
私の中に育ったもの、私の感情、私の興味、私というもの。その断片が本だと思う。
物に溢れた私の部屋は、私の中の形の無いものを守る為の部屋でもあるのだ。
END
「形の無いもの」
「気をつけて下さいよ」
昇っていく背中に声をかけた。
「大丈夫だよ」
彼はそう答えてどんどん上へと向かう。スーツのままジャングルジムを昇っていく姿はなんだかちぐはぐな感じがした。
「こんなに低かったかなぁ?」
「貴方が大きくなったんでしょう。身長何センチあると思ってるんです」
見上げてそう言った私に、彼はゆっくり振り返る。
「あははっ、そうか」
月を背にくしゃりと笑うその顔は、いつもより少し幼く見えた。
帰り道、たまたま通りがかった無人の公園。
街灯の灯りに照らされたジャングルジムに、彼は引き寄せられるように歩き出した。
「子供の頃はよく昇って遊んだなぁ」
そう言って彼は錆びたパイプを懐かしそうになぞる。
「妹もよく昇っては頭をぶつけたり落ちて膝を擦りむいたりしてましたね」
「君は?」
「私もまぁ、よく落っこちました」
「だよな。私もだよ」
そんな他愛ない話をしていたら、急に「昇ってみよう」なんて言い出した。呆気に取られた私に彼はジャケットを押し付けて、「よっ」などと言ってパイプに足を掛ける。
私はと言えば、半分呆れ、半分心配しながら昇っていく彼を見上げるだけだった。
「到着」
てっぺんに辿り着いた彼が声を上げる。
「景色はどうですか?」
パイプに寄りかかって尋ねた私に、彼は「あんまり変わらないね」と答えた。
それはそうだろう。身長190センチを超えるいい大人が使うものじゃない。飽きてすぐに降りてくるかと思ったが、彼はてっぺんのパイプに座るとそのまま月を見上げた。
「·····」
煌々と輝く月を背に、ジャングルジムのてっぺんに佇む彼の長身は妙に絵になった。
「君も来ればいいのに」
「遠慮しときます」
「じゃあ、落っこちたら頼むよ」
「いい大人なんだから落ちないようにしなさい」
隣に並ぶのはいつでも出来る。
今はこの、多分レアであろう構図をしっかりと目に焼き付けておきたい。
私の気持ちを知ってか知らずか、彼はしばらく月を見上げたまま動かなかった。
END
「ジャングルジム」
声が聞こえる。
目が見える。
話が出来る。
このアプリを楽しむことが出来る。
それはなんて、幸せな事なのだろう。
END
「声が聞こえる」