せつか

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8/15/2024, 3:34:58 PM

月の光が波に反射している。
寄せては返す波に乗って、冷たい光がゆらゆらと揺れている。昼の喧騒が嘘のように静まり返った海は、波の音以外何の音も聞こえなかった。

『夜は行くな』
そう言われていたのに、ホテルの窓から見下ろした月と海の光景があまりに綺麗で、まるで誘われるように私は誰もいない浜辺へと足を向けたのだった。

肌を焼く陽の光も、耳障りな笑い声も無い海は静寂そのものだった。
砂を踏む感触すら新鮮に感じられ、歩くだけでも充実した気持ちになってくる。

『夜は行くな』
私にそう言ったのは誰だったか。
その人はきっとこの居心地の良さを他人に知られたくなかったのだろう。そんな事を思いながらふと、月を見ようと顔を上げた時だった。

「こんばんは」
月の光を受けながら、寄せ来る波に爪先を濡らして佇む人がいた。
柔らかな笑みを浮かべている。
珍しい色の目をした人だった。
「夜の海には行くなと言われなかった?」
その人は少し首を傾げて、静かな声でそう言った。
波の音だけの世界の中で、その声は私の耳に心地よく響いた。
「何か危険なことが?」
私の問いにその人は笑みを返すだけだった。

二人の距離が縮まっていく。
伸びてきた指先が、私の頬をそっと撫でる。
月の雫が触れたように、冷たい指だった。

END


「夜の海」

8/14/2024, 11:48:14 AM

「坂だよ!」
「知ってます!」
「·····、まっ·····!!」
「掴まってて下さい!」

二人で乗った自転車が、ぐんぐん速度を上げて坂を降りていく。緑の木々や街並みが後ろへと流れていくのを風を受けながら見送る。
「気持ちいいですね!」
「え!?」
「風が気持ちいいですね!」
「あぁ、うん!」
彼の両肩に手を乗せて、稲穂のような金髪が風を受けて波打つのを見下ろしている。
「このまま海まで行きましょうか!?」
「いいけど、重くないのかい!?」
「気になりませんよ!」
このまま道なりにまっすぐ行けば、やがて浜辺に辿り着く。籠に乗せたジュースがガチャガチャ音を立てる。流れ去る風の音。タイヤが坂を滑る音。合間に重なる互いの声。
「海に着いたら何をしましょうか!?」
「なんでもいいよ!」
「着くまでに考えておいてください!」
「分かった!」

着いた途端、私達は自転車を砂浜に倒してそのまま寝転がるだろう。そうして荒い息を吐きながら、どちらともなく笑い合う。
そんな光景が頭に浮かんで、私は彼の両肩を掴む手に思わず力を込めた。

END


「自転車に乗って」

8/13/2024, 2:59:22 PM

近未来を舞台にした物語で、ストレスが数値で表される機械や、ストレス値が危険な値を示したら仕事を休んだり隔離されたりする社会システムが当たり前になっているものがある。
そういう作品に触れるにつれ、その社会システムが出来るまでの過程を教えて欲しいと思う。
現代の技術でもストレスを数値化することはある程度出来るのだろう。問題は、その数値が危険水域に達した時にほとんどの人が休める状況に無いということだ。
辛くなったら休める社会、なんて夢のまた夢。だから心を病んで鬱になったりする。

百年後か、千年後か。
過労死とか鬱とか、そういう言葉が死語になる日は来るのだろうか。


END


「心の健康」

8/12/2024, 3:54:04 PM

「人が死んで、最初に忘れてしまうものは声なんだって」
彼女が言う。
私は口が聞けない。声が出せない。
最初から声が無い私なのだから、忘れるも何も無い。
「――良かった。キミが死んだ時、私が忘れてしまうものは他の人より一つ少なくて済むんだね」
彼女の言葉の意味が私にはよく分かる。

――では、私は?
もし、彼女が先に死んでしまったら私は彼女の声を忘れてしまうのだろうか。
彼女の少し金属質な、高い声が好きな私にとって、それはとても悲しい事だ。
「私が先に死んだら、か。·····そうだねえ」
彼女は笑いながらノートに何やら落書きをしている。
猫や花、その横はカピバラ·····だろうか?
「声を忘れちゃったとしても、こうして書いた字や絵や、一緒に撮った写真がいっぱいあるから大丈夫だよ。それに、スマホに動画も残ってるでしょ?」
私が頷くと、彼女はにっこり笑った。

◆◆◆

今、私の隣に彼女はいない。
彼女の方が先に死んでしまったのだ。
「ごめんね、ずっと内緒にしてて」
小さな画面の中で、病衣を着た彼女が呟く。私よりずっと深刻な病を抱えていた彼女は、ある冬の日に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
「キミは大丈夫だよ」
ある日送られてきたメール。そこに添付された短い動画。
「私はキミに沢山素敵なものを貰って、とても幸せだったよ。だから今度は私がキミに、贈り物を贈るね」
動画の中で彼女は背筋を伸ばし、居住まいを正す。
「んん·····、本当は歌は苦手なんだけれど」
たどたどしい歌い方で、彼女は歌う。
決して上手くはない。時々音程が外れ、声が裏返る。
けれど金属質なその声は、私の大好きな声で。
当時流行っていたアイドルの歌を、私は画面の中の彼女と共に歌う。
音程の外れた彼女の歌と、声の出せない私の無音の歌。けれど世界中のどんな音楽よりも私にはそれは美しいもので――。

泣きながら、私は動画の中の彼女に微笑んだ。


END


「君の奏でる音楽」

8/11/2024, 4:03:38 PM

買い物から帰ってきたら、同居人の姿が無かった。
荷物を片付け、二階の私室を覗くがそこにも姿は無い。じわりと浮かぶ汗を拭いながら階下に戻り見回すと、裏庭に続くドアが開いていた。

猫の額ほどの小さな庭に、麦わら帽子を被ってしゃがみ込む後ろ姿があった。白いシャツにうっすら汗が滲んでいる。図体のでかい男がいるせいで、ただでさえ狭い庭が余計に狭く見える。
「おい」
「·····あぁ、おかえり」
しゃがんだまま振り返った男は、麦わら帽子のつばをほんの少し持ち上げて微笑んだ。
「不用心だな、鍵が開いていたぞ」
「まだ店を閉めるには早いかなって」
言いながら立ち上がる。男の頬に汗が伝うのを見上げながら、私は持ってきたペットボトルを差し出した。
「ありがとう」
「今日はもう閉めたらどうだ? この暑い日にチョコレートを買いに来る客なんかいないだろう」
「そうしようか」
男が水を流し込む。大きく動く喉元をぼんやり見つめていると、蝉の合唱がシャワーのように降り注いで、頭の奥がぐらついてくる。男の傍らにはむしった草が山になっていた。
「あ」
ペットボトルをこちらに返しながら、男が不意に声を上げた。視線を追うと土の上で蝉が仰向けになって死んでいる。白く変色した腹が、既にだいぶ時間が経っていることを伝えていた。
シャベルを拾い、蝉の死体を片付けようとした私の手を男が止めた。
「いいよ、そのままで」
「·····」
「そのうち蟻が全部食べてくれる」
私達の会話を非難するように、蝉の合唱が大きくなった。
「熱中症になる前に戻るぞ」
「うん」

夏が終わる。
今年は雨が少なかった。
雨の代わりに降り注ぐ蝉時雨が、私達を覆い隠してくれているのかもしれない。
店内に戻ると男は私に麦わら帽子を被せて、不意に唇を重ねてきた。
「なんだ突然」
「なんとなく」
子供のように笑う男に麦わら帽子を突き返すと、彼はそれを被ってふふ、とまた笑った。


END


「麦わら帽子」

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