せつか

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8/12/2024, 3:54:04 PM

「人が死んで、最初に忘れてしまうものは声なんだって」
彼女が言う。
私は口が聞けない。声が出せない。
最初から声が無い私なのだから、忘れるも何も無い。
「――良かった。キミが死んだ時、私が忘れてしまうものは他の人より一つ少なくて済むんだね」
彼女の言葉の意味が私にはよく分かる。

――では、私は?
もし、彼女が先に死んでしまったら私は彼女の声を忘れてしまうのだろうか。
彼女の少し金属質な、高い声が好きな私にとって、それはとても悲しい事だ。
「私が先に死んだら、か。·····そうだねえ」
彼女は笑いながらノートに何やら落書きをしている。
猫や花、その横はカピバラ·····だろうか?
「声を忘れちゃったとしても、こうして書いた字や絵や、一緒に撮った写真がいっぱいあるから大丈夫だよ。それに、スマホに動画も残ってるでしょ?」
私が頷くと、彼女はにっこり笑った。

◆◆◆

今、私の隣に彼女はいない。
彼女の方が先に死んでしまったのだ。
「ごめんね、ずっと内緒にしてて」
小さな画面の中で、病衣を着た彼女が呟く。私よりずっと深刻な病を抱えていた彼女は、ある冬の日に突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
「キミは大丈夫だよ」
ある日送られてきたメール。そこに添付された短い動画。
「私はキミに沢山素敵なものを貰って、とても幸せだったよ。だから今度は私がキミに、贈り物を贈るね」
動画の中で彼女は背筋を伸ばし、居住まいを正す。
「んん·····、本当は歌は苦手なんだけれど」
たどたどしい歌い方で、彼女は歌う。
決して上手くはない。時々音程が外れ、声が裏返る。
けれど金属質なその声は、私の大好きな声で。
当時流行っていたアイドルの歌を、私は画面の中の彼女と共に歌う。
音程の外れた彼女の歌と、声の出せない私の無音の歌。けれど世界中のどんな音楽よりも私にはそれは美しいもので――。

泣きながら、私は動画の中の彼女に微笑んだ。


END


「君の奏でる音楽」

8/11/2024, 4:03:38 PM

買い物から帰ってきたら、同居人の姿が無かった。
荷物を片付け、二階の私室を覗くがそこにも姿は無い。じわりと浮かぶ汗を拭いながら階下に戻り見回すと、裏庭に続くドアが開いていた。

猫の額ほどの小さな庭に、麦わら帽子を被ってしゃがみ込む後ろ姿があった。白いシャツにうっすら汗が滲んでいる。図体のでかい男がいるせいで、ただでさえ狭い庭が余計に狭く見える。
「おい」
「·····あぁ、おかえり」
しゃがんだまま振り返った男は、麦わら帽子のつばをほんの少し持ち上げて微笑んだ。
「不用心だな、鍵が開いていたぞ」
「まだ店を閉めるには早いかなって」
言いながら立ち上がる。男の頬に汗が伝うのを見上げながら、私は持ってきたペットボトルを差し出した。
「ありがとう」
「今日はもう閉めたらどうだ? この暑い日にチョコレートを買いに来る客なんかいないだろう」
「そうしようか」
男が水を流し込む。大きく動く喉元をぼんやり見つめていると、蝉の合唱がシャワーのように降り注いで、頭の奥がぐらついてくる。男の傍らにはむしった草が山になっていた。
「あ」
ペットボトルをこちらに返しながら、男が不意に声を上げた。視線を追うと土の上で蝉が仰向けになって死んでいる。白く変色した腹が、既にだいぶ時間が経っていることを伝えていた。
シャベルを拾い、蝉の死体を片付けようとした私の手を男が止めた。
「いいよ、そのままで」
「·····」
「そのうち蟻が全部食べてくれる」
私達の会話を非難するように、蝉の合唱が大きくなった。
「熱中症になる前に戻るぞ」
「うん」

夏が終わる。
今年は雨が少なかった。
雨の代わりに降り注ぐ蝉時雨が、私達を覆い隠してくれているのかもしれない。
店内に戻ると男は私に麦わら帽子を被せて、不意に唇を重ねてきた。
「なんだ突然」
「なんとなく」
子供のように笑う男に麦わら帽子を突き返すと、彼はそれを被ってふふ、とまた笑った。


END


「麦わら帽子」

8/10/2024, 4:05:06 PM

列車の旅というのは不思議だ。
肘をついて流れる景色をぼんやり眺めていると、様々な思いが湧き上がっては通り抜けていく。

これから向かう目的地への期待と不安、流れては去っていく景色への感嘆と興奮、そして故郷への郷愁――。
一人で列車に揺られていると尚更そんな事を感じる。
パートナーなり友人なりがいたらまた違ったものを感じるのだろう。そもそも仲間がいたら、彼等との会話や体験に夢中で考え事をする暇も無いのかも知れない。
·····いや、分からないな。
旅といえば一人旅がほとんどだった私には、誰かと共にする旅の感慨などというものは、想像の範囲を出ない。
よく人生を旅に例える事があるが、だとすれば私の人生は決して一人旅などでは無かった。むしろ多くの人に支えられ、多くの人と共に歩いた人生だった。
私が不意に旅に出ることを思い立つのは、一人になりたいからなのかもしれない。

列車は速度を落としていく。
そろそろ終点だ。
小さな港町だという。観光地でも何でもないそこには宿は一軒しか無い。時間と金には余裕があった。飽きるまでその宿で過ごして、町をぶらぶらして、私は私の旅を終わらせるつもりだ。

コンクリート造りのホームが見えてくる。
終点のその駅は無人駅だった。
列車が軋んだ金属音を響かせて止まる。
ホームに降り立つと冷たい風が頬を撫でて、私は思わず肩を竦める。
ちらちらと、細かな雪が降り始めていた。


END


「終点」

8/9/2024, 3:31:18 PM

上手くいかなくたっていいこと。
それはある。確かにある。
服装選びとか、料理とか、何かの競技とか、確かに上手くいかなくても別の手段があったり、誰かにフォローしてもらったりで大抵のことは何とかなる。
やらないで後悔するより、やって後悔した方がいい、というのはある意味真理だろう。

けれど、上手くいかないと困ることもある、
手術に失敗は許されないし、車の運転も下手なままだと事故のもとだ。今はもう無いかも知れないが、契約書のハンコを押す場所を間違えると大変なことになる。

上手くいかなくたっていい事なんて、本当は少ししかないのかも知れない。

END



「上手くいかなくたっていい」

8/8/2024, 4:24:29 PM

蝶よ花よと育てられ、って言うけど花はともかくなんで蝶なんだろう?

そう思って調べてみたら、平安時代の和歌にその語源がある、みたいな記事を見つけた。
清少納言の歌への返歌らしい。蝶や花を育てた、という意味では無く、美しいものを愛でた、というニュアンスの言葉だったそうだ。
確かに蝶も花も綺麗で、儚げで、触れるにしても慎重に、大事に大事にしたくなる。
けれど語源となったその返歌には、少し悲しい意味があった。

美しさを失ったものを、盛りを過ぎたものを変わらず愛し続ける心を、ずっと持ち続けていたい。

END


「蝶よ花よ」

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