ごめんね。
ウェディングドレス姿を見せられなくて。
ごめんね。
孫の顔を見せられなくて。
ごめんね。
お父さんやお母さんと同年代の人達が〝普通に〟感じているであろう「親の幸せ」を感じさせてあげられなくて。
私は私の選択や、私自身の価値観や生き方を否定する気は無いけれど、この世でただ二人、両親にはほんの少しの後ろめたさを抱えている。
それでも私をやめられないから、こうして「ごめんね」と心の中で謝り続けるしかないのだ。
END
「ごめんね」
夏服の袖口から伸びる腕が好きだ。
ぴっちりしたシャツより少しゆとりのあるのがいい。
シャツと腕の隙間に漂う涼やかな感じとか、薄い綿や麻の生地の、さらっとしてそうな質感が妙に好きだ。
照りつける太陽などものともせず、涼しい顔をして街を歩く若者たちの足取りを見ると、怖いもの知らずの強さを感じる。
なんてことを考えてしまうのは、私がきっと歳をとったからなのだろう。暑さにはもう屈服するしかなく、軽やかな半袖シャツなどを着て夏を謳歌するなど出来なくなってしまった。
通り過ぎた季節というのは、いつでも眩しく見えるものなのだ。
END
「半袖」
生きるというのは、天国と地獄を行ったり来たりすることなのかな、と思う。
例えば自分へのご褒美としてプリンを食べるとする。
プリンを食べてるその時は天国だけど、その後でお腹を壊したら地獄になる。そんな感じで、天国と地獄を行ったり来たりしながら、最期にどちらに傾いていたかを振り返って、人は自分の人生を総括するのかな、と思う。
――今の例え話のプリンのように、些細な天国と地獄ならいい。恐ろしいのは、自分ではどうにもならないもののせいで取り返しのつかない結末を迎えてしまうこと。
行ったり来たり出来ない本当の地獄の入口は、きっと私のすぐそばで、気付かれぬように密かに、でもぽっかり大きな口を開けている。
すぐそばにある本当の地獄に気付かないまま、行ったり来たり出来る天国と地獄を繰り返し、「ああ良かった」で人生を終えられるだろうか。
いつか来るその日を、私は恐れている。
END
「天国と地獄」
「欠けてしまう月や流れ落ちてしまう星に願い事をするのって、不安にならない?」
ベランダで缶ビールを飲みながら、彼女は不意にそんなことを言った。
「そう?」
スルメをくちゃくちゃ噛みながら、私はのそのそベランダまで這いずっていく。外は虫がいるからあまり出たくない。網戸を挟んで部屋の内側から、タンクトップ一枚の彼女の背中を見つめる。
「そんなものに願い事をしたって、ちゃんと聞いてくれるか分かんないじゃん」
「あー、確かに」
それでも彼女は月から目を離さない。今日は満月。いつもより大きく見える月が彼女を照らしている。
「やっぱご利益ありそうな仏像とかがいいよ」
「そっちのが下世話な願い事は却下されそうじゃない?」
「そうかなぁ」
私達は週末、こうして互いの家で呑みながらダラダラとくだらない会話をする。そんな生活ももう七年。
親友というか、腐れ縁というか、心地よい関係は続いている。
「ってか、下世話な願い事ってなんだよ」
笑いながら彼女が網戸を軽く叩く。
私はようやくスルメを飲み込んであはは、と笑う。
「お金持ちになりたいとか、恋人が欲しいとか、美味しいもの食べたいとか、下世話な事願ってられるのは平和な証拠だよ」
「そりゃそうだ」
「アンタはなんか願い事あんの?」
大きな丸い月を背に、彼女が振り向く。
「んー·····」
網戸越しに月を見る。
焼き目のついたホットケーキみたいだ。
食べたら無くなってしまうホットケーキに、私は何を願うだろう?
「とりあえず腰が治りますように」
「ぶっ!!」
缶ビールを盛大に噴き出す彼女に、私はまた笑う。
欠けてしまう月にも、流れ落ちてしまう星にも、食べたら無くなってしまうホットケーキにも、本当に叶えたい願い事は言わない。――これは私が全霊をかけて、自分の力で叶えなきゃいけない願いなんだから。
〝ずっと彼女と一緒にいられますように〟
END
「月に願いを」
それは雨が降り始めて何日めかの、夕方の事だった。
いつ陽が昇り、いつ沈んだのか分からないほど雨は長く降り続いている。灰色の景色の中でしとしとと鳴るその音を聞き続けていると、雨はこのままもう二度と止むことは無いのではないかと思われた。
「こうも続くと、雨は嫌いじゃないと言っていたあなたも気が滅入るんじゃありませんか?」
努めて明るく問うた。
窓から見える景色は雨に煙っている。石畳の街も、教会の屋根も、その先に見える森も輪郭がぼやけて、人の姿さえもぼんやりとしか見えない。
返事が無いことを訝しみながらチラリと横目で見ると、彼は今にも泣き出しそうな目をして呟いた。
「困ったな·····。還れなくなってしまう」
「――」
その声があまりに頼りなく、力無く聞こえたことに衝撃を受ける。咄嗟に伸ばした手で彼の手を握ると、絡めた指に力を込めた。
「かえらないで」
「でも、私は·····」
このまま雨が降り続けば、何もかもが水に沈んでしまうかもしれない。
街も、森も、·····彼が育った、美しい湖も。
そうなったらこの狭い部屋で二人きり、ずっといられるのだろうか。やがてこの部屋も水に呑まれて、彼も私も、一緒くたになってしまうのだろうか。
「かえらないで」
もう一度言うと、彼は私の手を握り返してくれた。
「·····わかったよ。もう、かえらない」
その言葉は、私にとってどんな愛の告白よりも美しく、尊く響いた。
END
「降り止まない雨」