「いい天気だね」
僕は彼女にそう話しかけた。
「そうね。」
彼女はただ一言、少し間を置いてそう返した。
たった1回の会話で僕たちの間には沈黙が続く。
彼女は何とも思っていなさそうな顔だが、僕にはその沈黙が辛かった。
彼女と僕は、ただ、病院の中庭のベンチに同じタイミングで座っただけの関係で、病院にいる理由も、好きな食べ物も、お互いの名前すらも知らない。
彼女はパジャマ姿でここにいる。
おそらく彼女はこの病院に入院しているのだろう。
もしかしたら、何度かすれ違ってはいるのかもしれないが、記憶にない。
「明日は晴れるかな」
僕は彼女にもう一度話しかけた。
「どうかしら。」
また1つ、会話をしてすぐに沈黙が流れる。
彼女は今度も、少し間をあけてから答えた。
僕たちの間には、雨が傘に当たる音だけが流れる。
そこで僕はふと、疑問に思うことがあった。
「君は雨が好きなの?」
「ええ。」
彼女は、今度は間をあけずに答えた。
「この傘をさすことができるから。」
彼女はさらに、二言目を口から吐き出した。
そして、ゆったりと、雨粒が飛び散らないように傘を回した。
くるりと回されたそれは、上品な緑葉色の上に紫陽花を思わせる青色や桃色が散っていた。
「綺麗だね」
僕は思わず声に出していた。
「ありがとう。」
彼女はそう言って微笑んだ。
今日初めて見た笑顔だった。
「私のヒーローが褒めてくれた傘なの。」
彼女は微笑みを浮かべながら、またゆったりと傘を回した。
「私、ずっと待ってるの。」
あの人を。
最後にそう付け加えて、彼女は初めてこちらを見た。
悲しげな微笑みを見て、彼女を待たせるヒーローとやらに怒りが募った。
彼女はこんな雨の中、健気にヒーローが褒めてくれた傘をさし、彼女のヒーローを待っている。
僕はその怒りをどうにかしようとして、右の拳で右の太ももを叩いた。
すると、振動が伝わったのか、じ〜んとした痛みが、脛の辺りに広がった。
「いっってぇ!!!」
思わず声を上げた。
そうだ、僕は右足を骨折していたんだった。
だから、僕はこの病院に通っていたのだった。
いや、正確に言うと、僕は頭にも怪我を負っていた。
傷自体は、もうすでに塞がったが、お医者さんによると、僕は軽い記憶障害を起こしているらしかった。
足を骨折した時の記憶が無いのは、その時に頭をぶつけたせいらしかった。
何も覚えていないけれども。
「大丈夫!?」
僕が痛みに震えていると、彼女が泣きそうになりながら、僕に駆け寄ってきた。
いや、本当に泣いていたのかもしれない。
彼女は傘を投げ出していた。
彼女の顔が雨に濡れていたから、泣いていたかどうかなんて判別出来なかった。
大切な傘を投げ出してまでこちらを心配してくれる彼女は、あの時と変わらずに優しかった。
急にあの時の記憶が蘇った。
階段から落ちそうになった彼女を庇って、僕は足と頭を強く打った。
意識が段々と薄れていくなか、庇った彼女が、可哀想な程に泣いていたから、どうにかして、笑わせてあげたかった。
そんなとき、ふと彼女のそばに傘が落ちているのを見つけた。
おそらく、彼女が持っていた傘だ。
ころりと転がっているそれは、上品な緑葉色の上に紫陽花を思わせる青色や桃色が散っていた。
とても彼女に似合う傘だと思った。
僕は色とりどりの傘を見るのが好きで、雨が僕にとっての「いい天気」だった。
この傘をさして、雨の中に佇む彼女はさぞ綺麗だろう。
「綺麗だね」
僕は彼女の傘に目をやってから、彼女の目を見た。
彼女は驚いた顔をしてこちらを見ていた。
「君は雨の中、その傘をさして、中庭のベンチに座っている」
僕はその様子を思い浮かべた。
「僕は、そんな君に声をかける」
どうやって声をかけよう。無難に「いい天気だね」というのはどうだろうか。
でも、雨を「いい天気」というのは、普通の人からみたらおかしいことなのかもしれない。
「そして、僕は君をデートに誘う」
彼女は相も変わらず、ぽかんとした顔をしている。
もう涙は止まっていた。
「君は僕に微笑みかける」
僕は彼女をじっと見つめる。
彼女も僕をじっと見つめていた。
「そして、君は「嫌です。」と言って、僕を思いっきり振る」
彼女は、少し間をあけて、くすりと笑った。
「そんなことしません。」
彼女はクスクスと雨音のように涼やかに笑った。
僕はそんな彼女を見て声を出して笑った。
遠くから、お医者さんが走ってきた。
こちらを呼ぶ声がする。
僕はそれを最後に意識を飛ばした。
どこかから、おそらくだが、彼女の名前を呼ぶ声が聞こえる。
こんな雨の中に、入院中の患者がいたら、きっと驚くことだろう。
ああ、天気の話なんてどうだってよかったんだ。
僕が言いたかったのは
「お嬢さん、ちょっとこの後お茶でもどうですか?」
彼女は驚いた顔をした後に、笑みを浮かべ、首を縦に降った。
天気の話なんてどうだっていいんだ。僕が話したいことは、
私は必死に走っていた。
無我夢中で。
周りの目なんて気にせず。
どこに向かっているのかも分からないまま、とにかく走った。
息が上がっても、汗が滴り落ちても、足が縺れそうになっても、私は走るのをやめなかった。
周りの人にとって、それは異様に思えたに違いない。
彼らの反応は様々だった。
仲の良い同級生は、私を応援してくれた。
真面目な先輩は、私を褒めてくれた。
優しい先生は、私を心配してくれた。
私の母親は、私に何もしてくれなかった。
何度も何度も足を止めたくなった。何度も何度ももうやめたいと泣いてしまいたかった。
でも、そんなことは出来なかった。
母の関心を引くためには、走り続けるしかなかった。
どんなに足を動かしても、母が私を応援することは無かった。
どんなに汗を流しても、母が私を褒めることは無かった。
どんなに息が切れても、母が私を心配することは無かった。
それでも、いつか、母が見てくれるかもしれないという期待を背負って、走り続けていた。
そんな私は、ついに小石に躓いて転んでしまった。
それが痛くて苦しくて悔しくて、とうとう涙が溢れてきた。
涙が止まらなかった。
擦りむいた足が痛くて、立ち上がれないほどで。
でも止まる訳にはいかなかったから。
なんとか立ち上がろうとした。
そんなとき、誰かが私の肩を掴んだ。
「何、してるの!!」
母だった。
今まで聞いたことないほど、大きな声で彼女は私に怒鳴った。ただ、息がきれているようで、とても苦しそうだった。
それほどの怒りということだろう。
私は震えた。彼女に認めてもらいたくて、一度も止まらずに走り続けてきた。
しかし、結局、躓いて、起き上がれなくなっている。
彼女は怒っているのだろう。落胆したのだろう。軽蔑のしただろう。
私は、この日から逃げていたのだ。
彼女に見捨てられていまうこの日から。
私は涙を流した。
もう逃げることは出来ない。
走り続けて疲れきった私の足ではもう立ち上がることも厳しい。
涙が止まらない私を彼女は抱きしめた。
「どうして頼ってくれないの!!」
彼女もまた泣いていた。
私を想って泣いていた。
怒りながらも、私を撫でる手は、昔と変わらず優しかった。
いつからか、私は母に認められたくて走り出した。
1人で何でもやってきた。
母が私を見てくれるように一生懸命に。
でも違った。
母はずっと私を見ていた。
私がいつ転けてもいいように、私をいつでも抱きしめられるように、必死に走る私の後ろを必死に追いかけていた。
無我夢中に走る私は、そんな母に気づかずに、ただ、目の前の、母のいない光景だけが事実だと信じて。
私を見守る母を私は見ていなかった。
「さぁ、帰ってご飯にしよう。」
そう言った母は、もう怒っていなかった。
優しい顔をした母に私は何も言えなかった。
私の手を引いて、母は今来た道を帰り始めた。
とにかく進むことしかしなかった私には、それがとてつもなく悪いことに思えた。
私は足を止めて、元の方向へと走ろうとした。
だが、それよりも前に母がこちらを見た。
「大きくなったね。」
母はそう言って笑った。
いつの間にか、母を見る私の目線は下へと向いていた。
「頑張ったね。」
母は、私の手を少し強く握った。
振り払えるくらいの握り方だったが、私はそのまま手を引かれ続けた。
「あなたがとっても頑張ってたから、ご褒美にいちごのケーキを買ってきたよ。」
大好物があると聞いて、私は急にお腹が空いたように感じた。
今まで、走ることに一生懸命で、お腹が空くことも喉が渇くことも感じたことが無かった。
「飲み物は紅茶がいいな。」
急に喉も乾いてきた私は、母にそう言って、母よりも前に出た。
母の手を引く形で家路を辿る。
「もちろんよ。」
そう答えた母の手を感謝の気持ちを込めて、握り返した。
「明日は雨が降るから、傘をさしていきなさいね。」
母がこういった日には、絶対に雨が降る。
雨が嫌いな私は少しげんなりとした。
明日になったら、私はまた、前へ進むべきなのだろう。
今までは、雨が降っても傘をささずに走っていたけれど、母に言われてしまったから、明日は傘をささなくてはならない。
傘をさしながら、走るのは難しいだろう。
それならば、仕方がないから歩くしかない。
2つの傘が並んでいる様子が、頭の中に浮かんだ。
ただ、必死に走る私。何かから逃げるように。
「ごめんね」
彼女はそう言って泣いていた。
2人だけの教室で、静かに泣いていた。
「ごめんね」
彼女はまた同じように謝った。
私たちはこれから帰ろうとしていたところで、私はすでに教室の扉の前にいた。
彼女は私の机の前にいた。
誰に何を謝っているのだろう。
この場には、私と彼女しかいないから、おそらく、私に言っているのだとは思う。
だけど、謝られるようなことをされた覚えはない。
「どうしたの?なんで謝るの?」
急に泣きながら謝り出した彼女を慰めようと、私は彼女に近づいた。
ハンカチを差し出そうとしたが、彼女はすでにハンカチを右手に持っていた。
それは、私が昨日あげたハンカチだった。
彼女は右手にハンカチを持っているのにも関わらず、目に浮かぶ涙をそれで拭おうとはしなかった。
かわりに、私の机に落ちた涙を一生懸命に拭いているようだった。
「何してるの?私の机なんて別にいくら濡れてもいいから!」
自分よりも私の机を優先する彼女は、私の友達には勿体ないほど優しくていい子なのだ。
だから、どうか泣き止んで欲しかった。
ただ、笑って欲しかった。
私の事なんて忘れて欲しかった。
ああ、なんて馬鹿なことをしたのだろう。
こんな私では、彼女を抱きしめて、涙を拭ってあげることも出来やしない。
彼女の瞳に映らない私では、彼女を笑わせてあげることも出来やしない。
「ごめんね」
彼女はそう言って泣いていた。
彼女しかいない教室で、静かに泣いていた。
「ごめんね」
彼女は何度目かの謝罪をした。
悪意で黒くなった机を拭きながら。
私があげたハンカチを真っ黒に染めて。
彼女は私の机を綺麗に拭きあげると、花瓶の水を変えてから、黒くなったハンカチをじっと見つめた。
彼女の瞳には強い何かが宿っていた。
ああ、この子はきっと。
何十年先でも、私のことを覚えていてくれるのだろう。
私のことを忘れてはくれないのだろう。
数日に一度、悪意を染み込ませたハンカチをじっと見つめ、自分を呪い続けるのだろう。
あなたは何も悪くないのに。
あなたはあなたを呪ってしまうのだろう。
私のことを想って、呪い続けてしまうのだろう。
それは、なんて悲しい結末だろうか。
それは、なんて苦しい未来だろうか。
私があなたにとっての過去の人間になりますように、という想いをのせたハンカチは、私たちを繋ぎ止めてしまった。
私はあなたのいない未来を選んだのに。
あなたは私のいる未来を選んでくれた。
視界がぼやけてきて、彼女の表情を読み取れなくなった。
「ごめんね」
彼女は、呟くように言った。
さっきと同じ言葉。
私は彼女がまた泣き出すのではないかと思った。
急いで、白い花柄のハンカチで目から溢れてくる涙を拭って、彼女を見た。
彼女はもう泣いていなかった。
彼女の持っているハンカチはもう白い花柄のハンカチではなかった。
彼女はもう謝らずに、教室を去った。
誰もいない教室を夕日が照らしていた。
「ごめんね」
こんにちは。
私はあなたの一番の理解者であり、あなたを陥れた人間です。
私は、たくさんの酷いことをしてしまいました。
あなたは踊ることが好きでしたね。
人前で緊張しすぎて、手足が震えたあの日。
頭が真っ白になって、練習では完璧だったダンスを見せることが出来なかったあの日。
あの失敗が起こったのは、私があなたに期待という名のプレッシャーを与えてしまったからでしょう。
あなたならできる、あなたならやり遂げられる。
そんな期待の押しつけをしてしまいました。
あの日から、あなたは踊ることをしなくなってしまいました。
小学生の頃に一度は家庭の事情で諦めて。
それでもあなたは踊ることが好きだったから。
人付き合いが苦手なのにも関わらず、ダンスサークルに入ったのに。
私のせいで、あなたはまた諦めることを選んでしまった。
私のせいで、諦めざるを得なかった。
私のせいであることは分かっています。
だから、これから言うことはとても傲慢で、我儘で、腹の立つ言葉だと言うことも分かっています。
それでも、他の誰でもなく、あなたに聞いて欲しい。
私は今、踊ることに、もう一度挑戦してみたいと思っています。
明日から、ダンススタジオの体験に行くことにしました。
まだ、人前で踊ろうという気にはなりません。
それでも、何度諦めても、結局、私は踊ることを選んでしまっている。
なんて、粘り強い、しつこすぎて離れてくれない"好き"なのでしょう。
あなたもそう思いませんか。
ここまで来たら、私が諦めてあげようと思いました。
認めてあげようと思いました。
私は踊ることが好きなのだと。
何度も諦めて、何度も遠ざけようとした。
あなたはそれが出来てしまったから、本当は踊ることが好きじゃないのかも、と考えているでしょう。
でも、安心してください。
私は、今でも踊ることが好きです。
人前で踊りたいとは思えないけれど、ただ音楽に身を任せて踊ることが好きです。
だから、あなたも踊ることが好きです。
なぜ断言できるのか。
それは、私はあなたの一番の理解者であり、あなたを陥れた人間であり、あなた自身だからです。
そろそろ、不安はなくなりましたか?
すぐには無理かと思います。
なので、いつかダンスにあなたが向き合えるようになったら、過去のあなたを励ましてあげてください。
今の私のように。
拝啓、あの頃の不安だった私へ
僕は、昔から、人と話すことが苦手だった。
僕は、昔から、忘れることが苦手だった。
僕は、昔から、騙すことが苦手だった。
僕は、昔から、何もかもが苦手だった。
僕にとって、人と話すといつことは、気力が大いに必要なことだった。
いや、正確に言うならば、いつの頃からか、とにかく気力がもっていかれるようになった。
きっかけは何だっただろう。
高校で仲のいい友達2人だけが同じになって、僕だけが違うクラスになってしまったことだろうか。
それとも、中学校になってから恋人に避けられて、関係が自然消滅してしまったことだろうか。
いや、小学生4年生で転校し、転校先で人見知りを自覚してしまったからだろうか。
これら全てが違うなら、おそらく、僕が自覚していなかっただけで、もともと人と話すということは、かなり気力を使うことだったのだと思う。
小学生の頃は、仲間にいれてほしい、と声を掛けられないタイプだった。
中学生の頃は、人前で立つと手足や声が震えて、汗が止まらなかった。
高校生の頃は、ペアワークにも関わらず、隣の人に無言の時間を提供してしまった。
ここまで来ると、僕もまずいと感じるようになった。
少しでもこの苦手を克服するために、僕は高校1年生の5月、バイト先に接客業であるコンビニを選んだ。
最初は声が小さく、元気がないような接客だったと思う。が、慣れてくると、段々とお客さんに笑いかけ、元気な声で接することが出来るようになってきた。
だが、これが出来るのはお客さんに対してのみだった。同じバイト先の先輩との雑談などは、1ミリも盛り上がらなかった。
しばらくして、先輩たちとも仲良くなれなきゃ意味が無いと思い立った。
そして、ネットの記事やまとめを読み漁り、「とにかく質問をする」というのを実行してみた。
結果としては、かなり会話が弾むようになった。
先輩と喋る時は常に汗が止まらなかったが、それでもなんとか雑談を成立させることが出来た。
相変わらず、人前では緊張して頭が真っ白になり、汗が止まらなかったが、手足や声の震えはなくなっていた。
多少なりとも、バイトのおかげで、人とのコミュニケーションのとり方は改善された。
しかし、高校最後のクラス替えで、僕は1人になってしまった。簡単に言うと、知り合いのいないクラスに入り込んでしまった。
よりにもよって、仲のいい2人だけは同じクラスになって喜んでいた。僕だけが違うクラス。
5分の休み時間や移動教室は常に一緒。ゆったりと歩きながら楽しそうにおしゃべりをしているその様子を、僕の手に入れることが出来なかったそれを見る度に、それから目を逸らして早足で目的の教室へ向かった。
僕は、家に帰って泣いた。
彼らが憎かった。
僕を置いてけぼりにしておきながら楽しそうに笑う2人が、夢の中にまで出てきて、その時、何故か持っていた包丁でズタズタに切り裂いてしまおうかと思った。
だが、それは叶わなかった。
腕を振り上げて包丁を彼らに向けるどころか、体が勝手に手の力を抜き、包丁を落としてしまった。
包丁はおそらく、僕の彼らへの憎しみの現れだったのだろう。
だが、僕はそれを捨ててしまった。
捨てることを僕の本能が選んだ。
分かっていたのだ。自分は、夢の中であっても彼らを傷つけることは出来ない。彼らは大切な友人で、こんな僕を友達だと言って、昼ご飯に誘ってくれる。
この憎しみは、僕の我儘にすぎない。
僕が、過剰に彼らに執着してしまっているという証明にすぎない。
だから僕は、1年間をひとりぼっちで過ごし、卒業アルバムは買わなかった。
ただ、残念な事に僕は、忘れることが苦手だった。
卒業アルバムを買わなかったのは、あのひとりぼっちの日々を忘れるためだった。
が、高校を卒業してから、僕は度々、辛い思い出や黒歴史を急に思い出すようになった。
あのスピーチ発表の時の僕は、手足や声が震えていて、さぞ滑稽だっただろうな。
あの時の僕は、今考えると強迫性障害を軽く患っていて死ぬほど手洗いしていたな。
あの体育の時の僕は、張り切りすぎて走っている時に思いっきり転んでいたな。
あの時の僕は、
あの時の、
あの、
フラッシュバックのように、その嫌な思い出が蘇るのはいつも突然だった。
その度に、恥ずかしくてこの世から消えたくなったり、胸が苦しくなったり、頭を強く打ち付けて記憶を消したくなったりした。
嫌な思い出ほど忘れられないもので、バイトや学校での失敗、幼稚園の頃のやらかしまで鮮明に蘇ってくる。
こんな症状が割と頻繁に起こったため、僕はかなり参ってしまった。
そんな時見ていたテレビで、催眠術を体験する、というコーナーを放送していた。
僕は、これだ!っと思った。
自分に催眠術、つまり暗示を掛けてしまえばいいのではないかと思った。
「この思い出の主人公は僕では無い」
という暗示(思い込み)を。
ただ、これがなかなか上手くいかなかった。
強く思い込んでみても、やはり完全にそのフラッシュバックを消すことは出来なかった。
だが、とにかくその記憶を忘れたフリをした。
さらに、その際、1度指パッチンをすることにしてみた。
何かしらの動作と関連付けることでパブロフの犬のような現象を起こせるのではないかと考えたためだ。
すると、3ヶ月ほどで記憶にモヤをかけられるようになった。
残念ながら、今でも完全に消し去ることは出来ない。
しかし、指パッチンをすると、「さっきまで何かを考えていたけれど、なんだっけ?」という感じになる。
もちろん、一時的に記憶にモヤをかけられるだけなので、段々と思い出してはきてしまう。
だが、こうして僕は、嫌な記憶のフラッシュバックを一時的に忘れることができるようになった。
ただ、僕は運が悪いようで、人を騙すことが苦手だったようだ。
これを自覚したのは最近のことだ。
人見知りをそれなりに改善し、忘れることも一時的にだが、可能としてきた。
しかし、1週間前、バイト先でボディタッチが多い子に大事にしているものを急に触られた時、怒りが湧き上がった。その子はそれなりに仲良くしている子だった。
その子の恋愛相談を受けるくらいには。
だが、とにかく腹が立ったのだ。
「とても気に入って買ったもので、汚れないように気をつけている」という話をしたばかりなのに、なぜ触ろうという気になるのか意味がわからなかった。
「ここふわふわだね。」といってそこを擦る指を反対に曲げたいような気持ちだった。
だが、そんな怒りを出さないように笑って誤魔化した。しかし、もうその子に対して、心の底から笑いかけることは出来ないな、と感じた。
今でも、怒りは収まらない。
そして、今日、保健室の先生に聞きたいことがあった。
保健室では、お悩み相談なども可能で、今回は別の用事だが、また今度にでも、1週間前のバイト先でのことについて話してみようかな、と考えていた。
僕は保健室の扉を3回ノックして、「はい」という返事が聞こえたから、部屋に入った。
すると、「今電話中だから、椅子に座って待っててください。」と言われた。
保健室の椅子は先生の目の前にしか無かった。
目の前に座るの嫌だなー立ってよーかなーと思いながら、少しづつ椅子に近づいていた。
「外の椅子に座って待っててくれる?今電話中だから。」
先程よりも大きな怒ったような声で先生が言った。
「あ、はい、すみません失礼しました」
と言って、僕は外の椅子にぽつんと座っていた。
そして、急に怒りが湧いてきた。
あの先生の感じは完全に怒っていた。が、電話中だから、外で待てなんて習ったことがない。
先生は最初、「椅子で待て」とは言ったが「外の椅子で待て」とは言っていない。
具体的に指示しなかったそちらが悪いのに、僕はなぜ軽く怒鳴られたのだろうか。
しばくして、先生は優しい声で「お待たせしました」と声をかけてくれた。
この人だけには悩みを打ち明けたくないな、と思いながら、僕は声をかけてきた赤の他人に笑顔を向けた。
僕は、僕自身を騙しきれなかった。人見知りではないと自分を騙すことも、あれは嫌な記憶ではないと自分を騙すことも。
友人を包丁で刺さなかったのは、夢の中であっても傷つけなくないからだと自分を騙してきた。
だが、違う。
あれが夢だとわかっていたら、きっと僕は楽しそうに、あの日見た2人の笑顔と同じくらい素敵な笑顔を浮かべて血飛沫を浴びていたことだろう。
嫌な思い出を指パッチンで一時的に消すことが出来ると自分を騙してきた。
だが、違う。
あんなのは、本当にただの暗示で、一時的にでも消せている訳では無い。消せていると思い込んでいるだけなのだ。
そう、思い込んできただけだった。
何もかも出来たと思い込んできた。
何もかも出来なかったから。
結局、僕は昔から、人見知りで、失敗を引き摺り、友人を夢の中で殺し、現実から目を背ける、ただの僕から変わることができていない。
そんな自分から逃れることができていない。
逃れられない呪縛