「こんにちは!」
突然、後ろから声をかけられた。
ハッとして振り向くと、1人の女が立っていた。
「こんな所で何してるの?」
そいつは首をこてんと傾げてこちらに問いかける。
そいつの顔には特徴的な痣があった。
とても大きくて、黒くて、醜い痣。
私はそんなやつの姿を見て驚いて、疑って、そして絶望した。
「私、生きちゃうんだ...」
ぽろりと涙が零れた。
屋上を通る風が私の涙を吹き飛ばしてしまった。
生きちゃうんだ。
生き残っちゃうんだ。
今日、生きるのをやめようと思ったのに。
ここで死のうと思ったのに。
「そう!私、生きちゃった!」
私にそっくりな、だけどどこか大人びた顔をしたそいつはニカリと笑った。
私、そんなふうに笑えるんだ。
「私、生きちゃったの。死ねなかったの。ほんとにその時はものすごく絶望した。なんで助かっちゃったんだろうって。生き残っちゃったから、おばあちゃんの泣き顔、見ることになっちゃった。」
死んだら、見なくてすんだのにな。
おばあちゃんは、私の味方。唯一の味方。
とっても優しいおばあちゃん。
でもおばあちゃんは体が悪い。
「ここではないどこか」
朝日の温もり
人間とは嘘をつく生き物である。
嘘をついたことのない人間など居ない。
嘘をつくこととは、自分を守ることであり、人を守ることである。
もちろん、僕もその嘘つきの1人である。
誰にだって、誰にも言えない秘密があるだろう。
僕にだってあるのだ。
この秘密は墓場まで持っていくと決めた。
ただ、ずっと心の中だけに留めておくというのは、なかなかにしんどいものなのだ。
だから、僕は、この子達に秘密を託した。
今日も今日とて、可愛い我が子を大事に持ち、病室の前に立つ。
ひとつ、深呼吸をし、扉を3回ノックしてから、扉を開ける。
病室の主は、ベットの上からこちらを見た。
そして、僕の顔をじっくりと見ると、微笑んだ。
「こんにちは。初めまして。」
僕もそんな彼に微笑み返した。
「初めまして。」
1回目。
僕は、後ろ手で扉を閉め、病室に入った。
彼は少し戸惑った様子で、僕の顔色を伺う。
初対面の奴が断りもなしに自分のテリトリーに入ってきたのだ。
僕だったらキレる。
ただ、彼は優しい人だった。
「えっと、実は僕、記憶が1週間しか持たないらしくて...今日がちょうど記憶を失ってから1日目というか、何もかも分からない日なんですけど」
あなたは僕のお知り合いですか?
彼は少しバツが悪そうにこちらに聞いてきた。
そんな顔をする必要なんてないのに。
僕はそれに肯定を示した。
彼はそれだけで更に顔色を悪くし、「すみません」と謝った。
「僕を心配して、お見舞いまでしてくれる人を忘れてしまうなんて...ほんとに、なんでこんな...」
泣きこそしてない無かったが、泣きそうな顔ではあった。
僕は努めて冷静に彼をなだめた。
「覚えてないのも無理はありません。実は、知り合いといっても、僕はただの店員なんです。」
花屋の。
と僕は付け加える。
彼はこちらをぽかんと見ている。
そりゃそうだろう。
なぜ、知り合いというか、顔見知り程度の奴が、見舞いに来てるのか。
もし、僕が同じような状況になったら普通に恐怖である。
ここで不審者扱いをされて、追い出されては堪らないので、僕は続けて話し出す。
「あなたの恋人が僕に依頼してくれまして。1週間ほど出張があって、あなたのお見舞いに行けないので、1週間だけ、あなたに花を届けて欲しいと。」
そう言って、僕は手元にある花を彼に見せた。
これで2回目。
「来週の今日、あなたの記憶がまた無くなった際には、恋人の方がきちんと貴方に会いに来るそうです。」
彼は心底驚いたようだった。
「僕、に...恋人がいるんですか...?」
しかも、花を届けてくれる...?
彼は自分で言っておいて、自分の言葉を理解出来てないようだった。
僕が「はい。」と返事をすると、じわじわと顔を赤くし、キラキラと目を輝かせた。
「僕の恋人、僕の理想そのまんまだな!!!!」
かなり喜んでいるようである。
まぁいつものことだが。
「その方は、あなたの悪口をいつも言っていましたが、決まって最後にはあなたに渡す花を真剣に選ぶんです。」
僕の話を、彼は真剣に、とても嬉しそうに聞いていた。
見たことも会ったこともない、今の彼からしてみれば、赤の他人である恋人に、よくもまぁそんな熱量を向けられるものだ。
単純に尊敬する。
「『あいつは、いつもぽけ〜っとしてる』だとか、『あいつほどのバカはいねぇ』とか、『顔がいいだけで他はクソ。』だとか色々おっしゃってましたが」
かなりの悪口である。
というか、他人が聞いたら、ほんとに恋人かを疑問に思うだろう。
それでも、そんな恋人を持つ彼は、キラキラとした瞳を更にキラキラとさせ、周りに花が飛んでいそうなほど幸せそうだった。
悪趣味なやつだな、と思いながらも言葉を続ける。
「『ぜってぇあいつに俺の存在刻みつけてやる。』と最後にいつも宣言して帰るんです。」
3回目。
僕は、彼の恋人について語る上で、とんでもない爆弾を落としてやった。
彼の恋人の一人称が、"俺"である、ということだ。
これについては、嘘でもなんでもなく事実である。
先に言っておくが、俺っ子女の子な訳では無い。
だが、彼は聞こえてなかったのか気にすることでもなかったのか、先程と変わらず幸せオーラを出し続けている。
彼は馬鹿で優しいやつなので、前者も後者も有り得るのが怖い。
僕はひっそりと後者であれば良いなと思っていた。
「口が少し悪くて、一人称が俺!!!高圧的でプライドが高いけれども、僕のことは愛している!!すごい!!!!僕の理想すぎてすごい!!!!!よくやった昔の僕!!!!!!!!」
後者であるどころか、もはやヤバいやつである。
強すぎる熱意に僕は若干引いていた。
ここが個室じゃなかったら大問題になってたな。
よかった、ここが個室で。
それはともかく、普通に怖いので、これはさっさと帰るに限るだろう。
僕は営業スマイルを崩さないようにしながら、窓際の花瓶に近づいた。
その間も彼は、最初のあの態度はどうしたと思うほどの興奮具合で自分の恋人に想いを馳せている。
それを尻目に、僕は花瓶の前に立ち、今日持ってきた花だけを入れるために、元々入っていた花を取り出そうとした。それらの花達は、枯れている様子がなく、元気に咲いていたが、今日はこの花だけを入れたいのだ。僕が彼らに手を伸ばした時、
「...え?」
僕の動きが止まった。
おかしい。
足りない。
花の本数が足りない。
僕はいつも、11本ちょうどの花を持ってくる。
持ってくる種類は様々だが、花の本数を変えたことはない。
今日以外は。
今日だけは花を1本しか持ってきていないが、それ以外は必ず11本持ってきていた。
枯れたから先に捨てた?
だが、残っている花はこんなにも元気に咲いているし、何より、いつも入荷しても間もない新しい花を持ってきていた。
1週間は必ず持つように、花瓶の水も毎日取り替えている。
1週間以内に枯れるはずがない。
ならばなぜ。
「探し物はこれですか?」
さっきまでの興奮状態はどうしたのか、病室に入る瞬間よりも少し柔らかな態度で、彼は僕に微笑んだ。
彼の手には栞のようなものがあった。
そしてその栞には、濃いピンク色の花が挟まっていた。
押し花だ。
だが、なんだが不格好で、見た目としては悪い。
恐らく、何本かを無理矢理使ったものなのだろう。
なんだか花びらがごちゃごちゃと固まっていて、綺麗とは言い難い。
だが、その花は昨日まで、この花瓶にあった花だった。
「...押し花ですか。いいですね。あなたの恋人も、プレゼントした花を大切に思ってくれているようで、きっと喜びますよ。」
4回目。
じわりと変な汗が出る。
なんで、よりにもよって今日なのだ。
自分の運のなさを呪う。
「これ、4本の花で作ったんです。1本でやった方が、綺麗に作れるみたいなんですけど、どうしても4本が良くて。」
彼は微笑みを崩さずに続ける。
「知ってますか?花言葉って花の本数でも変わるらしいんです。詳しくは知らないんですけど...昨日急に思い出して。それで、どうしても4本で押し花を作りたくなったんです。」
でも、花屋の店員さんなら知ってるか。
彼は、少し冷たいような、そんな声色で僕にこの言葉を吐いた。
もちろん、花屋の店員であるからには知っている。
各々の花の花言葉とは別に、花の本数で花言葉が決まるのだ。
だから、プロポーズではバラの本数を気にする人が多い。
バラの花言葉とは別に、伝えたい言葉をそうやって表すのだ。
「...いいえ。初めて知りました。僕は店員と言っても、ただのバイトなので。」
5回目。
これは僕を、彼を守るための嘘。
この嘘は何がなんでも通さなければならない。
この嘘を墓場まで持っていくと決めたのだ。
彼を襲ったこの不幸は、彼にとってのチャンスなのだ。
何としてでもあの事実は隠し通さねば。
「そうなんですね...でも、おかしいな。」
先程までベットの上にいた彼は、いつの間にか、病室の扉の前に立っていた。
彼は冷たい声色のまま、こちらに微笑んだ。
「これを教えてくれたのは君なのに。」
心臓が爆発したかと思った。
汗が滝のように流れた。
頭が真っ白になった。
そうだ、彼は言った。
「昨日急に思い出して。」と。
彼は今日、昨日のことを思い出せないはずだ。
なぜなら彼は、たったの1週間しか、覚えていられないから。
彼の思い出は、1週間ごとで、リセットされてしまうから。
可能性はひとつ。
彼は思い出した。
彼は"俺"を思い出してしまった。
その答えに至った時にはもう遅かった。
彼に出口を塞がれていた。
もう逃げられない。
神様は、なんて残酷なのだろうか。
今日で最後にしようと思ったのに。
彼を幸せにしようと思ったのに。
震えを抑えるように拳を作る。
手に持っていた黒い花の茎が少し曲がってしまった。
「言ってたよね。4本の花束の花言葉は、『一生愛し続ける』だって。だから、僕は、栞を作る時に、どうしても4本の花で作りたかったんだ。」
彼はこちらをじっと見つめていた。
蛇に睨まれたカエルのように、俺は動けなかった。
「今日の朝、いきなり今までの記憶が戻って驚いたよ。...ただ、記憶を失うようになってからの記憶は戻らなかったんだ。」
彼は続けた。
「何かないかと思って、探してみたら、枕の下に日記があってさ。」
そう言って、彼は栞を持っていない方の手にある日記らしきものを見せてきた。
油断した。
棚や引き出しはいつも確認していたが、枕の下とは。
「そしたらその日記には、『僕の恋人に会いたい』ってことと、『花屋の店員さんの持ってきてくれた花』についてしか書かれてなかったんだ。」
まさか、僕の恋人がその花屋の店員さんだとは思わなかったようだね。
口の中が砂漠のようだった。
墓場まで持っていくはずだった嘘が暴かれていく。
罪を告げられているような状況にいる俺は、まるで処刑台にいる囚人のような気分だった。
今日だけで、5回も嘘をついた。
今までの彼についた嘘を合わせたら、信じられない程の数になるだろう。
こんなにも頑張ったのに、こんなところでバレてしまうのか。
最後の最後で欲をかいてしまった、俺への罰なのだろうか。
「僕は、全部の花言葉を調べてたみたいだね。」
あなたの幸せを願っています。
私はあなたと出会えて幸せです。
今までずっとありがとう。
あなたを忘れない。
そして、11本の花言葉は『最愛』
「色々あったけど、この栞の花言葉は」
変わらぬ心、途絶えぬ記憶。
「どうやら、プロポーズにも使われるようだ。」
彼は愛おしそうにその栞の花を見た。
誰にも言えない秘密
失恋とはどんなものなのだろうか。
ふとそんな疑問が頭の中に浮かんだ。
今は数学の時間で、先生が黒板を使って問題の解説をしている。
先生曰く、その問題は「とても難しい問題」であるそうだが、僕の手は問題を解き終えるまで1度も止まらずに答えを導き出した。
数学は得意だ。
使う公式が決まっているし、それに当てはめるだけで答えは出る。解き方が何通りかある問題もあるが、最後は同じ結論に至る。明確な答えがでる数学は、僕にとって、分かりやすくて簡単なものだった。
だが、国語はあまり得意では無い。
国語には明確な答えが存在しないのだ。
にも関わらず、大人は僕達子どもにそんなぼやけた答えを導き出せと言う。
解答をみても、あくまで解答例が書かれているだけで、これと僕の答えが多少の違いがあっても許されるのだ。
特に小説なんかは、1番嫌いだ。
「登場人物の気持ちを述べなさい」という問題がテスト用紙にあるのを見た途端、その用紙を思いっきり破りたくなるほどには嫌いだ。
話の中で「Aは悲しい気持ちになった」「Bはとても嬉しくなった」などというような直接的な表現をされているならまだ文句は無い。
問題はほんのりと香る程度の表現しかないにもかかわらず、登場人物の心情を問うてきた時だ。
初めてその問題に出会った時は「は?」と思わず呟いてしまった。
だってそうだろう。
ちゃんと書かれていないのにも関わらず、気持ちが分かるはずがない。
その時の問題では文中で「泣いた」という言葉があったから、「CはAとの別れを惜しんで悲しいんでいた
」と書いてテストを提出した。
後日、返却されたテストには、その僕の解答にチェックマークがついていた。
一緒に配られたテストの解答を見てみると、「CはAとの別れを内心喜んでいた」と書かれていた。
先生の解説によると、文中の所々にCがAを避けていたり、憎んでいる様子が書かれていたそうだ。
あ
失恋