ぬるい炭酸と無口な君
からん、と音がして最後の氷の山が崩れた。めいっぱいに開け放した窓からはぬるい風が吹き込んでくる。日中の暑さに負けたセミ達は何の音も立てず、カーテンが揺れる音とページ送りの音が時折響くだけだった。
「うわぁ」
ふと、向かいに寝そべっていた君が声を出した。
「どうした」
手元の本から向こうに視線を向ければ、ちょっと見てよと言いたげに君がグラスをつまみ上げていた。
「わぁ大洪水」
「さいあく」
宙に浮いたグラスの底からぱたぱたと雫が滴り落ちて、床に水溜まりを作っていく。
ぽたぽた、雫を手で受け止めながら君はそのまま中の液体に口をつけた。
「だめだ」
「薄い?」
「ん」
飲んでみろ、ということらしい。絶対に美味しくないだろと思いつつ少し温度の上がった液体を嚥下する。
「…マズ」
「ふふ」
ぱちぱちと弾ける感触も凛とした冷たさも失われた、ただの甘い液体が喉を通り抜ける。氷が解けたせいで容量だけが増えたそれは、そういえば3時間くらい前に作ったものだ。
「新しいのいれる?」
こくん、と君が頷くのを見て本に適当な紙を挟んで立ち上がる。
「次は珈琲にしようか」
僕の言葉にぱっと君の顔が明るくなって、この提案に乗り気なことが伺える。ふわりと苦い香りが部屋に広がっていく。同じ空間で本を読もう。そんなことを言い出した君のリクエストは気づけば後半戦だ。2杯の珈琲が冷気をまとってお互いのそばに鎮座する。
僕たちの午後はもう少し続いていく。
とん、たん、ひとけのない街灯の下に足音が響く。
ととん、たん、ふわり。白いスカートがオレンジ色に照らされて揺れる。細い腕を伸ばして羽ばたくように下ろす。右足を軸にしてくるりと回り、軽やかに裾をはためかせる。
深夜二時。コンクリートの地面にぽつりとたった一本の街灯の下で、その子は踊っていた。青い柱の街灯はあまり光が強くないようで、灯っていてもどこか心許ない。辛うじて灯りが届く古びたベンチに落ちる影はどこまでも暗く、まるで深淵がこちらを覗き込んでいるようだった。
ジジ、ぱちぱち、プツ、カンカン。電灯は古いのか、時たま音を静かに響かせる。それは時にあの足音と絡み合い、不思議なメロディーを奏でていく。
暫くして目が慣れれば、色々なものが見えてくる。
赤い自転車。小さな花壇。遠くに見える小さな明かり。
どこかの窓の、どこかの家の、まだ眠らない人の営み。
とん、たん、ぱちぱち、たたん。
軽い音と、古い音が重なっては離れていく。
――夜が、いっそう更けてゆく。
「あかり」
――少しだけ、強くなれるんだ。
舞台の袖でへにゃりと笑った彼をふと思い出した。緊張しいで大した役も貰えないくせに、演技が舞台が人一倍好きだった彼。同じ劇団にいたのはひと公演の本当に短い間で、だからほとんど人となりは知らないまま別れとなった。周りの人達は彼を凡人だと嗤って、そんなフィルターをかけて評価しているようで、可哀想だなぁとは思っていたけど。
彼はあの台本で私の相手役だった。台詞は噛まないし、表現も見せ方も研究したんだな、という立ち位置を守る人だった。個性は無くて、それが舞台上で致命的な欠陥になる、平たく言えば「ほぼ全部おなじ」になってしまう役者だった。安定していて掛け合いがしやすいから私は好きだったけど、演出からは嫌われている印象だった。
最低限の指導だけで、禄な手直しも指摘もされないまま迎えた初日。反省会ですら彼のシーンは話題にならなかった。2回目、3回目、私たち2人の空気感だけが整っていく。私たちは特に何も言われないまま主演の後ろを支え続けた。
千秋楽の舞台袖。ホールはお客さんでいっぱいで、出演者達は少しそわそわしている。泣いても、笑ってもこれが最後。やり直しも再演もないあと1回だけの公演。
「これで最後ですね」
何の気なしに彼に話しかける。私たちはこの舞台で出会って、夫婦になった。そんな2人だけの空気感は今日でおしまいだ。
「最後までよろしくお願いします、***さん」
役名じゃなくて、本名で呼ばれた。それが少しこそばゆくて、上手く返事が出来なかったけれど。
「妻役があなたで良かった」
スポットライトが瞬く。幕が上がり、出番が近づく。
「あなたのおかげで、僕はこの役を演じきれます」
困ったような、少し悲しそうでだけどどこか嬉しそうな笑顔で彼が振り返る。
行きましょう、舞台の上であなたとなら――
『舞台袖のアルペジオ』
「「いっせーのーせ、あいしてる!!」」
ふわり、夜風に裾がたなびいて心と身体が踊り出す。重力を振り切って飛び出した僕らの間を天の川が繋ぐ。眼下に広がった街はありきたりに宝石箱のようで、地平線はやっぱり少し丸みを帯びていた。
かくん、繋いだ手と手が傾いて、忘れていた重力が僕たちを下へと引き寄せる。吹き上げる風が君の白いスカートの裾をめいっぱい広げたのを合図に僕らの体は一直線に奈落へと滑り落ちた。
「大好きだよ」
「忘れないで」
「「今度は、2人で」」
―― 一緒に生きようね。
下へ、下へ、下へ。
めいっぱいの幸せと1粒の涙を抱えて、光り輝く星を目に焼き付けて、走馬灯よりも君の顔を、鼓動を、声を、全てを離さないように抱きしめて。最後の最期まで振り絞った愛を贈り合って、僕たちは永遠へ目を閉じた。
―― 「今入ってきたニュースです。**県**市の山岳から2人の遺体が見つかりました。2人は不可解にも互いに手を繋いだ状態で発見されており、また遺体の状態から高所から落ちたのではないかと推測されています。遺体はどちらも男性のものと見られますが、1人は何故か女装をしていたということです。警察は見身元の確認を急いでおり――
『9.8m/sの告白』
「未来ってなんだと思う?」
「先のこと、とか、そういうことじゃなくて?」
ふと、そんな記憶を思いだした。もう何年も前――彼女がまだ、生きていた頃の話だ。
「ふんわりしすぎじゃない?そんなんだから君は」
――やっぱり、なんでもない。言いかけた言葉を飲み込んで遠くをみた彼女の瞳が揺れていて綺麗だった。確かその日は雨が降っていて、僕たちはどこかの軒下で雨宿りをしていて。楽しげに跳ねる水をぼんやりと眺めながらぽつりぽつりと会話をしたその一場面の出来事。だけど、彼女のこの「そんなんだから」に何と返したのかはどうしても思い出せなかった。
ぽつり、ぽつりと取り留めもない会話を重ねて雨止みを待つ。朝食のパンがおいしくなかったとか、新しい靴を買うならどんなのがいいかとか。
そのまましばらくくだらない話をして、確か雨は止んでいたと思う。水たまりに反射した光が彼女の瞳に映っていたような気がするから。
「いい言葉だよね、未来って」
くい、と伸びをして僕の方を振り返った君の笑顔が小さなトゲに変わって心に巣食うなんて、この時の僕は一ミリたりとも思っていなかった。
『遅効性 未来哀悼 症候群』