猫眠ことり

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 ――少しだけ、強くなれるんだ。
 舞台の袖でへにゃりと笑った彼をふと思い出した。緊張しいで大した役も貰えないくせに、演技が舞台が人一倍好きだった彼。同じ劇団にいたのはひと公演の本当に短い間で、だからほとんど人となりは知らないまま別れとなった。周りの人達は彼を凡人だと嗤って、そんなフィルターをかけて評価しているようで、可哀想だなぁとは思っていたけど。
 彼はあの台本で私の相手役だった。台詞は噛まないし、表現も見せ方も研究したんだな、という立ち位置を守る人だった。個性は無くて、それが舞台上で致命的な欠陥になる、平たく言えば「ほぼ全部おなじ」になってしまう役者だった。安定していて掛け合いがしやすいから私は好きだったけど、演出からは嫌われている印象だった。
 最低限の指導だけで、禄な手直しも指摘もされないまま迎えた初日。反省会ですら彼のシーンは話題にならなかった。2回目、3回目、私たち2人の空気感だけが整っていく。私たちは特に何も言われないまま主演の後ろを支え続けた。
 千秋楽の舞台袖。ホールはお客さんでいっぱいで、出演者達は少しそわそわしている。泣いても、笑ってもこれが最後。やり直しも再演もないあと1回だけの公演。
 「これで最後ですね」
 何の気なしに彼に話しかける。私たちはこの舞台で出会って、夫婦になった。そんな2人だけの空気感は今日でおしまいだ。
 「最後までよろしくお願いします、***さん」
 役名じゃなくて、本名で呼ばれた。それが少しこそばゆくて、上手く返事が出来なかったけれど。
 「妻役があなたで良かった」
 スポットライトが瞬く。幕が上がり、出番が近づく。
 「あなたのおかげで、僕はこの役を演じきれます」
 困ったような、少し悲しそうでだけどどこか嬉しそうな笑顔で彼が振り返る。
 行きましょう、舞台の上であなたとなら――

『舞台袖のアルペジオ』

6/21/2024, 5:22:10 AM