些細な口論で、どうにもできない苛立ちを抱えた私は、思わず外に飛び出した。
今日こそは私は悪くない。
理不尽な八つ当たりは勘弁だ。
ちゃんと完全防備で家を出るあたり、自分は冷静だなと思う。
近くの本屋で時間を潰して、遅くまでやってるお店で珈琲を飲んで気持ちを落ち着ける。
腹を立てて家を出たはずなのに、一人を満喫できるご褒美時間にもなっている事に戸惑いつつも、涙もでてこなくなったから家に帰ることにする。
帰ったら何か言ってくるだろうか。
ああ言おう、こう投げかけよう。
でも正直言えば寝ていてほしいな。
あれこれ思い巡らせながら帰宅したのに、当の本人はゲームをしながら
「おかえり」
何食わぬ顔。
一体何なんだ、あっという間に再び頭に血がのぼるのがわかる。
私がどれだけ傷ついたか。言ってはいけない台詞を口にしておいてよくもまぁ。
なかったことにしようとしているなんてありえないし、そこまで思ってないとかならその神経を疑う。
顔なんか見てやらない。口もきいてやらない。
何故私がそうするのか、ちゃんと理解したらいい。
言葉では伝えたから、後は態度で示すのみだ。
せっかく買ってきたポテトチップスは、こっそり粉々にして部屋の片隅に。
ごめんねポテチ。君に罪はないから、最悪の場合には料理に使うつもりだからね。
返却されたテストの点数を見て、心が踊る。
そうそう、今回は手応えあったんだよね。
決して100点とかではないけれど、ここ最近の私にとっては久しぶりにものすごく良い点数だった。
なのに。
「今回の平均点は――点だ」
なんて先生が言うものだから、頭が真っ白になった。
…なんだ、頑張って勉強した成果が出たのだと思っていたら、皆にとっては当たり前の簡単な内容だったんだ。
そしてやっぱり私は平均点に届かない。
天国から地獄とはまさに。
昨年までは、むしろ“できる側”の人間だった。
それはずっと昔から。
やればやっただけ結果が出るのに、点数取れないっていうのが意味不明だった。
今年は…
“特学”と呼ばれるクラスになった。一目置かれるそのクラスは、有名大学に行くような子ばかり。
つまり授業の進度も難度も桁違いで。
私は一気に転落した。“できない側”の人間に。
クラスの人達との会話にもそもそも馴染めない。
皆にすごいと言われる高校に行って、すごいと言われるクラスに所属して。
一見華々しく見えるそれは、かつて自分が憧れたもの。
けれどそこにはもちろん順位があり、下の方になる人間がいるわけで。
そんなことを私は考えたこともなかった。
その立場になって初めてわかった、気付いた。
そうして見えたもの。
焦り
悔しさ
嫉妬
なりふり構わず頼ること
努力してもどうにもならないこともあること
そして最上位があるなら最下位が存在すること
湧き上がるドロドロした自分の気持ちに驚いたし、できる人達独特の人間関係はまるで別世界で、凄まじい疎外感も感じた。
そして彼らもまた、“できない側”の理解はなかった。そう、かつての私のように。そしてそれはそれで衝撃だった。
堪らなく辛い一年間だったけれど、今となっては良き思い出。
両方の立場から物事を見る、貴重な経験だったと思う。
だから私は、その両方を理解して夢を追いかけていきたい。
今日は久しぶりの彼の部屋。
彼は煙草と株と時々仕事、そして携帯。私はかいがいしく押しかけ女房よろしくのいつものルーティン。
あんなに会いたいと思っていたのに、最近はいざ会うとなんだかモヤモヤする。
おしゃべりもあまり盛り上がらないし、私が作る料理にも反応は薄い。聞けば「美味しい」と言うし、結構な勢いで完食するからそういう事なんだろうけど。
“年季を重ねた夫婦みたい”と思うのか、
“マンネリや倦怠期”と思うのか。
夜が更けたら当たり前のように重ね合わせる身体は、こんなに近くに居るのにとても遠く感じる。
きっと私達はもう、長くはないのだと、直感はそう告げているけれど、私はそこに気付かないふりをしている。
二人が決裂するような決定打もなくて、“情”もあるから、彼は踏み切れないだけで。
彼に素敵な人が現れたらきっとジ・エンド。
ここから再び盛り返せる可能性はいかほど?
“終わらせない”
好きなのか、情なのか、愛なのか、ただ負けたくないのか、自分でもこの感情に名前をつけられないのだけれど、“手放したくない”事だけは事実で。
だからやれるだけのアプローチ全部やってみて、どうしても駄目だったら…
私からサヨナラするんだ。
一方的な敗北は嫌だ。
「あー、こんな服もあったなぁ」
急に肌寒くなって、慌ててクローゼットを漁る。
鼻炎持ちには毎回地味に辛いこの作業、マスクに薬で完全ブロックしながら戦う。
「これはさすがに今年はもう着れないかな」
昨年しまう時には“まだいける!”と思っていても、久しぶりに出してみると結構傷んでいたり、トレンドから大きくはずれていたり。
急遽の買い足しも考えながらどんどん入れ替えていく。
そんな中ふと奥底に押しやられていた袋を見つけて取り出す。
「あ・・・」
淡いオレンジ色したモヘアニットのワンピース。
首元に華奢なビーズがあしらわれたそれは、
かつて「よく似合ってる」と言われてから、とびきりのお気に入りになっていたもの。
せっかくだから袖を通して鏡の前に立ってみると、
あれだけ似合っていると自分でも思っていた服装が、なんだかとてもちぐはぐに見えた。
そりゃそうか。
あの頃よりも年を取って、
気をつけてはいるけど体型も変わった、
髪型やメイクも当時とは違う。
そして何よりも・・・
「これはさすがにもう着れないかな」
そっとごみ行きの紙袋に入れる。
今年の衣替えは、鼻炎がたまらなく辛かった。
急に冷え込んだ朝。
まだ衣替えが中途半端なクローゼットから慌てて羽織ものを出す。
玄関を出れば、少しひんやりした空気が頬をなでて。
それがまた気持ちを引き締めてくれるようで、背筋が伸びる。
ふと香るはオレンジ色した小花たち。
爽やかさの中でむせかえるような存在感を放ち、私の気持ちを拐っていく。
金木犀にまつわる思い出なんて無いはずなのに、切ない気持ちになるのはなぜなのか。
それでいてずっとその場に佇みたくなる、甘い誘惑。
かき乱された心のまま見上げれば、オレンジ色の向こうに澄んだ青空。そして薄くかかる優しい雲。
今日も一日が始まる。
夕方、金木犀が空に浮かぶといいな