『手放す勇気』
私は明日、この家から引っ越すことになった。
ここは、私たち家族にとって辛いことを思い出させるからと家族みんなで話し合って決めたことだ。
数ヶ月前、飼っていた猫が死んだ。名前は凪と名付けていた。とても人懐っこくて家族みんなで可愛がっていた。けれど、もう寿命だったんだと思う。
ある日を境に、凪が急に歩かなくなった。両親は最初、ただ寛いでいたいだけだろうと言っていたけれど、たぶんあの頃から少しずつ体を動かすことが困難になっていたんだと思う。
日に日に衰弱していく凪を見て、私は見るのが辛くなって凪を構うことも少なくなって言った。
でも、凪はそんな私の気持ちを分かっていたのか私が構わなくてもずっとそばにいた。
たぶん、私が悲しいと思っていることを分かってそばにいてくれたんだと思う。
私もいつか、歩くのが遅くなっても、動けなくなっても私が手を差し出すと頬を擦り寄せて来る凪が可愛くて残り短い寿命を少しでもいい思い出にしてあげようと思うようになっていた。
その数週間後に凪は静かに息を引き取った。
その後はちゃんと弔って凪に凄く感謝した。
しばらく、凪のいない生活をしていたけれど、両親がこの家にずっと居るのはつらくないかと私に言ってきた。
いくら飼い猫と言えども亡くなってすぐに忘れて前を向いて生きていけるはずがない。
私はまだ、心のどこかで凪の死を悲しんでいたのだと思う。
もう私も前を向かないといけない時が来たのかもしれない。
今日、私はこの地を手放す勇気を胸に新たな地へ行くことになる。
凪の思い出をずっと忘れずに生きていくために。私が前を向いて生きていくためにも。
『光り輝け、暗闇で』
私は、小学生の頃に男子の悪ふざけで狭い場所に閉じ込められたことがある。
暗い場所に訳の分からないまま閉じ込められて出られなくなってパニックになっていた時、中学生だった兄が見つけ出して助けてくれた。
兄は私を見た途端、力いっぱい抱きしめて“ 無事で良かった”と言った。
その後、兄は悪ふざけじゃ済まされないと学校側に男子達がやったことを包み隠さず話して、相手が耐えられなくなり泣き出すぐらい私の代わりに怒ってくれた。
でも、私はその日から閉所恐怖症になってしまった。
そんな私を家族は心配してくれた。もう、あの学校に通えないと判断した家族は私のために引っ越すことを提案してくれた。
引っ越すと言っても隣町に越すだけなので仲の良い友達とは何時でも会える。
私は少し考えてから引っ越すことに決めた。
あんなことをしたクラスメイトのいる教室には戻りたくなかったから。
―――数年後。
私は、新しい環境にすぐ馴染み、仲の良い友達とも巡り会えた。閉所恐怖症は今も治らないけど、クラスメイトも皆良い人ばっかりだし、仲の良いクラスなので満足している。
兄は希望の大学に入るため必死に勉強している。
実は私には、兄に言うのが恥ずかしくて言えていないことがある。
あの時、閉じ込められた時に助けに来た兄が一瞬暗闇に差す一筋の光に見えたのだ。
あまりにも光り輝いて見えたからその光を見て安心してしまった。
たしかに兄は明るい性格をしているけれど、あの光は性格からくるものではなく、私にとってヒーローのように見えたのかもしれない。
私は……兄には今のままでいてほしい。
ずっと、ずっと暗闇でも光り輝くことの出来る存在でいてほしい。
『酸素』
私はいつも周りを気にするタイプだった。
ある女の子が悪口を言っているのを見かけたり、ある男の子が誰かの容姿について悪口を言っているのを見かけると、私のことなんじゃないかと思って不安になった。
だから学校では常に周りの人の反応や顔色を窺いながら生活していた。そのせいか学校では息をしている気がしなくていつも息苦しかった。唯一、家では酸素という名の空気を吸い込むことができたから自分が生きていると実感することができた。
ある日、近所にある家族が引っ越してきた。その家族は私と同年代ぐらいの男の子を連れていた。
私はその家族から彼は病気がちで体が弱いから自然が豊かで静かなこの地に越してきたのだという。
私は、いつの日か歳が近いこともあってその子の家に遊びに行くことになった。
彼が挨拶に来た時、私が体調が悪そうだったのに気づき部屋で休むように言った時から何故か彼の母親が時々家に招いてくれるようになった。
後で体調が回復した彼から聞いた話だが、今まで住んでいた地では誰も彼を私のように気遣ってくれる人はいなかったのだという。
彼の家に行き、彼と話すようになってから私にある変化があらわれたのだ。
それは、彼と一緒にいると体内に酸素を取り込めるようになった。つまり、息が出来るようになったのだ。
彼が穏やかな人だから居心地が良いのかと思ったけれど、少し違った。
彼は何に対しても、誰に対しても悪意のある話し方をしないのだ。
彼の話し方が、彼の優しさが、私に酸素を巡らせてくれているのだ。
私は家以外で、息苦しくないこの時間が好きだ。
彼がこの地に来てくれたから、私は息をしていられる。体に酸素を取り込むことが出来る。嫌な学校生活にも耐えることが出来るのだ。
あと何十年、いや…あと何年でいいからもう少しだけ彼のそばに……。
『記憶の海』
ある日、交通事故に遭った。家族と一緒に遠出をして帰路についた時だった。
反対車線から突っ込んできた車と正面衝突をした。
その日から僕は記憶喪失になった。
医者が言うには、頭を強くうってしまったせいらしい。一時的なものだけど、すぐに戻ることもあれば、一生戻らないこともあると聞いた。
僕は記憶を失っていたので何とも思わなかったけど、それを聞いた家族は泣き崩れていた。
僕が入院してから数日後、幼なじみだという女の子が会いに来た。
その子は僕の両親から僕の記憶を取り戻す手伝いをして欲しいと頼まれたのだそうだ。
その子は来てそうそうに、僕の反応を見て
「私の事も覚えていないと思うから、とりあえず何か会話しない?日常であった些細なことでもいいから」
と優しく微笑みながらそう言った。一瞬だったけど僕はこの子の笑顔を知っている気がした。
その日から僕は、彼女が毎日病室に来ては、些細なことや何の変哲もないことを話してしばらくすると帰って行くという日々を繰り返していた。
ある日の夜、夢を見た。幼い頃の僕と彼女が何かいい事があったのかお互いに笑い合っている夢だった。
―――あぁ、思い出した。幼い頃、僕はいつも何かと無茶をして怪我ばかりしていたからよく彼女に怒られていた。でも、結局は最後に“ しょうがないなぁ”と言いながら笑って許してくれるのだ。
翌日。
彼女に少しだけ記憶が戻ったことを伝えるといつもの笑顔で微笑みながらとても喜んでくれた。
記憶がなかった頃の僕はまるで深い海の底にいるような感じがした。
息が苦しくて、視界も何処を見ても真っ暗で心細かった。
どれだけ記憶を取り戻そうとしても靄がかかったみたいに何も思い出せずにいた。
そんな空虚な世界から彼女は僕を救いあげてくれた。
昔から変わらないその笑顔でこの真っ暗な記憶の海から。
『ただ君だけ』
私は生まれつき目が見えなかった。
そのせいで白杖をついて歩いていると、同級生から馬鹿にされることがあった。
私はその度に静かに何度も涙を流していた。
家族には心配をかけてはいけないとどんなことがあっても言わないことにしていた。
だから、誰が見ても私が隠れて泣いているということは気づかれていないと思っていた。
でも、ただ一人、こんな私の変化にも気づいている人がいたのだ。
それは私がよく気にかけていた近所に住んでいる耳の聞こえない少年だった。
私はお母さんに仲良くしてあげてほしいと紹介されて初めて男の子であり、耳が聞こえないことを知った。
ある日、点字で書いた紙をその子がくれた。そこに書かれていたことに私は驚いた。
“ 余計なお世話だったらごめんね。辛くない?我慢してない?もし困っていることがあるなら力になるよ”
その内容を点字で読んで私は久しぶりに大声をあげて泣いた。
その子はただ静かに優しく背中をさすってくれた。
私は、その子に口を開けてゆっくりと“ あ、り、が、と、う”と言った。
その子の表情は見えなかったけど優しく手を握ってくれたから喜んでいるのだと感じた。
あぁ、誰にも言えなかったことを、私が苦しんでいることをこの子は感じてくれていた。
ただ君だけが私を救ってくれたのだ。