束の間の休息
昨日、満中陰を迎えて、私の「これまで」にひと区切りついた…が…
今さらながらに気づいたのだが、状況が大きく変わるとき、頭と感覚のスイッチは同時に切り替わるものではないらしい。頭は次に必要な行動を示すが感覚は疲労感のような重さを手放せないでいる。はて、世には家族の介護を在宅でやり切った方々も少なくないと思うのだが、みなさんどうなのだろう…? すぐに元気いっぱいに次の必要へ進まれるのだろうか。それとも、とにかく次へと向かって進む中で徐々に適した活動性へシフトしてゆくのだろうか。
…ちょっとこぼしたくなっただけだ。
私の場合、強く疲労感を感じる要因は別にある。けれど私の身体はひとつしかないから、身体という「同一焦点」に重さを感じる、だけなのだ。わかっている、わかってるんだっ。
束の間の休息な感じを呼吸する方法を、探している。これから先もずっと有効なやつを。
むぅん…
星座
以前、私から見える宇宙は賑やかで明るかった。
昨日今日に見ている宇宙は、寂しい浮遊感がある。
何のことは無い。私が自分でそのように見ているだけだ。
たくさんの心が、宇宙を指さし何か言う。惑星を指さし何か言う。恒星を指さし何か言う。世界を指さし何か言うし、人間を指さし何か言う。
でも、いろいろ言うのに、いのちをまっすぐ指さして何か言うことはきわめて少ない。
「大きな話はいい(自分に関係無いからどうでもいい)」と、焦点を逸らす言葉を不思議に思った。
私はあなたという存在が今、現実に及ぼしていることについて言っているんだが。大きな話と感じるなら、それはあなた自身が大きいからだろう。…もしかして自覚が無いのか…?(マジかよ、その立ち位置で?)
謹んで、「アンドロメダ」とお呼び致そう。さしずめ、奮闘中のかの者が「ペルセウス」か。
ああ、なんだか腹が立ってきたな。うん、ちょっと、いやかなり、腹が立つ気がする。星の数ほど多くの者を巻き込んだ事象を自らに引責する口ぶりをしながら、絶えず己が流れに及ぼし続けている作用に目を閉ざし、「自覚」という責任を持たないことをダラダラやり続けるが故に、痛ましい現実事象が星の数ほど顕現し続けている事実があるのに、まるでアウトサイダーなその態度。「罪」と名付けた自己憐憫に包まってアンドロメダを決め込むけれど、「ペルセウス」を信じていない。ぐずぐずせずに自分が発している観の流れを浄化しろ。ペルセウスのいのちを無駄に削らせるのをやめなさい、愛なきアンドロメダよ。
付き合っておられぬわ。
…いかん、ぷんすかしたって何がどうともならん。だが少し、私の手足は温まったようだ。そしてわかった、私の目指した星の輝きは「真」だと。
さあ、また歩こう。
巡り会えたら
生きていれば、いろいろな物事や人に出会う。
喜ばしいことも、そうでないことも。これは仕方ないことなのだろう。
苦労や奮闘を要する物事が、自分自身にとって「めぐりあわせ」だと気づくのは大抵、そこを必死で駆け抜けた後だったりする。
さて、自分自身の行方に「立ちのぼる希望の気配」を、世の皆さんは感じ取るのだろうか? ある程度の年月を過ごしたら後は死に方を思うばかりだろうか? 「巡り会いたい何か」があるなら、それにつながる糸口は自分自身の胸の内深くに必ず存在している。自分の外に探すのでは途方も無い気がする物事でも、自分自身の内に夢見るその光景のなかに入って、想像力の助けをフルに使って、「巡り会いたい」それを、自分のなかに吸い込み、しばしそれを生きることを想像する…ことを、楽しく繰り返すと……
使い古された陳腐な諦めの呪文に「現実を見ろ」というのがあるが、これこそは現実を見ない者の戯れ言だ。無視して良い。現実がどこから生まれるか知らない者に限って高らかにこの呪文で自分自身を諦めに導き、そして周りをも巻き込んで行こうとする。
導かれるめぐりあわせは確かにある。
同時に、誰も皆、自分自身を「望む巡りあわせ」へ導くことができるのだ。
奇跡をもう一度
テーブルの上の、お茶碗に盛られた御飯を、普通に食べるって奇跡だと思う。
私は水田をやってない。
籾を撒かないし、田植えもしない。
稲を育てる作業をしない。
稲刈りもしないし干さないし脱穀も精米もしない。
けど、白い御飯を食べてる。
自分で米を育ててないだけじゃなく、御飯を炊くことすら自分でやってない(炊飯器が炊いてくれるから)。
なのに、ほぼ毎日、温かい御飯を食べてる。
やっぱり奇跡だと思う。
きっと明日も
先日、久々に友達に会った。一人は小学校時代から、もう一人は中学からつきあいの続いている人たちで、縁というものを思う。
一人は7月にも会っていたが、もう一人は遠地で仕事が忙しく、私も長く介護に携わっていたので、実に15年ぶりに会った。3人で会うのは20年ぶり。
再会した瞬間に皆中学生に戻った。互いを指さし、「なぜ年取らないんだ」と問う。ひとりひとり、それなりに苦境も通ってきて、年齢なりの醸成があってもいいはずなのに、まるで「学校の友達が休みの日に遊びに来た」そのままの態なのだ。
確かにみんな「おばさん化」はしている。喋るテンポや相互へのツッコミは清々しいくらい歯に衣着せない速攻だし、話す内容の主なテーマは体調の話と仕事の話。決して中学生の話す内容ではない。でも、そこにある人間関係の雰囲気が中学生なのだ。そういえば、友達ふたりは未婚の独身貴族で、私は子どもを抱えたバツイチ独り者だ。その場には「ひとりもん」ばかりだから“中学生のありよう”に戻ったのかもしれない。まあ平たく言ってすごく楽しかった。
さて、私はここでたまに述べる通り、「普通の人とはこんな感じ」という曖昧なテンプレートからすれば、キレッキレのキチガイである(もちろん常識的振る舞いの技術もある)。一方、友達ふたりは「明るく平穏に暮らす、社会の良心」のような人たちだ。私のように「闇の隣」にあるわけでもない。
そのような友達と20年ぶりの再会を以て、あらためて実感したことがある。
「明るく平穏に生き暮らす普通の人」は、世界に必要だ。切実に必要だと思う。現実のなかの光明は、そういう人たちこそが支えている。闇に目を向ける必要など無い。ひたすらに、そのまま、明るいトーンの世界に生き、世界のなかに平穏と安定と希望を生み出してゆく。
きっと明日も、その次の日も、私の友達ふたりはそのようであってくれるだろう。そうであってほしい。