郡司

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きっと明日も

先日、久々に友達に会った。一人は小学校時代から、もう一人は中学からつきあいの続いている人たちで、縁というものを思う。

一人は7月にも会っていたが、もう一人は遠地で仕事が忙しく、私も長く介護に携わっていたので、実に15年ぶりに会った。3人で会うのは20年ぶり。

再会した瞬間に皆中学生に戻った。互いを指さし、「なぜ年取らないんだ」と問う。ひとりひとり、それなりに苦境も通ってきて、年齢なりの醸成があってもいいはずなのに、まるで「学校の友達が休みの日に遊びに来た」そのままの態なのだ。

確かにみんな「おばさん化」はしている。喋るテンポや相互へのツッコミは清々しいくらい歯に衣着せない速攻だし、話す内容の主なテーマは体調の話と仕事の話。決して中学生の話す内容ではない。でも、そこにある人間関係の雰囲気が中学生なのだ。そういえば、友達ふたりは未婚の独身貴族で、私は子どもを抱えたバツイチ独り者だ。その場には「ひとりもん」ばかりだから“中学生のありよう”に戻ったのかもしれない。まあ平たく言ってすごく楽しかった。

さて、私はここでたまに述べる通り、「普通の人とはこんな感じ」という曖昧なテンプレートからすれば、キレッキレのキチガイである(もちろん常識的振る舞いの技術もある)。一方、友達ふたりは「明るく平穏に暮らす、社会の良心」のような人たちだ。私のように「闇の隣」にあるわけでもない。

そのような友達と20年ぶりの再会を以て、あらためて実感したことがある。

「明るく平穏に生き暮らす普通の人」は、世界に必要だ。切実に必要だと思う。現実のなかの光明は、そういう人たちこそが支えている。闇に目を向ける必要など無い。ひたすらに、そのまま、明るいトーンの世界に生き、世界のなかに平穏と安定と希望を生み出してゆく。

きっと明日も、その次の日も、私の友達ふたりはそのようであってくれるだろう。そうであってほしい。

10/1/2024, 7:23:13 AM