通り雨
なんだか久しぶりに聞く言葉のような気がする。このところよく聞くのは「ゲリラ豪雨」とか「線状降水帯」とか、ささやかさのカケラもない雨の姿を表す言葉ばかりだ。
今日このごろの私の頭は、何かにつけ「過ぎ行くもの」に流れがちのようだ。多くのものが「通り雨のように」過ぎてゆく。風景の変遷は当たり前のものなのに、妙にそこにフォーカスが向く。頭の中で変遷をトレースし、それを足場にしてどんどん全体の変遷へ視点を拡大してゆく。
いつか、通り雨のようだったと振り返る時に到れるんだろうか。はじけて生まれた沢山のrealmsが、落ち着くべきへ落ち着く時に。そして、たぶん多くの人が関心を持たず知らず、ゆえに理解の間口も開きにくい「ここ」で、私は「永のひとり」で居続けるんだろうか。
それすら「通り雨」であれば良い、と思う。
形のないもの
いちばん大切なもの、と思うとき、それは形のないものであるのは誰しも同じ…だよね…?
形がないから、心で受け取って心に抱きしめて生きる力に加えてゆく。
誰かからの祝福、誰かからの思いやり、愛なる心の表現。
形に残るものも、形のない大切なものを想うよすがとしてある。
「媒介」はいろいろあるけれど、形のない、いちばん大切なものがたどり着くのは、いのちの中だ。形を表現しているいのちの、内なるところ。
届いてほしいといつも思っている、感謝と愛情と幸いの祈り。私にはいつも届いているから、尚更に。
大事にしたい
過ぎてゆくもの。ありありと記憶しているうちは「在る」もの。皆が忘れていっても、私が憶えていれば何処かに在り続けるならば。
今顕れるもの。昨日の自分の、選択の結果。学び、より希望に近付く明日を目指すために。
これから顕れるもの。そこまでの道程。命を手引きするもの。精いっぱい生きる意味が集約する、その場所への望み。
花畑
四角く区切られた地面いっぱいに咲く、白い花。
豊かの気配が風に乗る。波のような起伏がかたどる丘陵のはるかには遠く山の緑が見える。ここはいつも風が渡る丘で、空も大きい。
……ジャガイモ畑だ。
人間の暮らしに密接した花。このイモが食べられる季節にどうやって食べようかな、ふふふ。その頃は季節の変わり目だ。…さようなら、おいしかったものたち。こんにちは、おいしいものたち。収穫の恵みよありがとう。
さて、これはイモ畑の話だ。お題は花畑。
菊花のおひたし、バラのジャム…ダメだ、食べ物ばかり考える。お腹が空いているわけでもないのに。
空が泣く
泣いているかのような感じがすることも、確かにある。空には、何かしらの「響」があると思う。
晴れている空からぱらぱら降る雨粒が「狐の嫁入り」と呼ばれているのを聞いたことがある。私の住む街では「涙雨だ」と言われていた、特定条件下の雨もある。そういえば、東京行進曲という歌の中にも「涙雨」なんてあったな。
私はめったに泣かない。
悲しいさなかに泣かない。大抵、それがほどける段になって涙が出る。涙をこぼして泣くと心折れそうな危機感があって、泣くのは後まわしにしがちかもしれない。
自分のなかに怒りがくすぶるとき、雷雨に遭うと「気の合う友」に会ったような感じがする。
怒りの下には悲しみがある。
悲しみの下には痛みがある。
痛みの根っこには願いがある。
生きてる心から花が咲くように自然な願いが生まれる。
踏み潰されれば痛い。
痛いと悲しくなる。
悲しいと泣く。
続いたり、繰り返し潰されれば、“泣いても(心を表現しても)届かない”と諦めて願いを閉ざす。
悲しみは居座り続ける。痛みが癒えるまでは。
そして怒りが、痛みと悲しみに蓋をする。生きる方便と言わんばかりに。
自分に感じる「無力感」の悲しみに、怒りで蓋をする。
怒りの顕れはさまざまだ。
わかりやすく暴れる人も居れば、黙って漬物石みたいに引きこもる人も居る。集団でやれば暴動や戦争が顕れ、皆「心の蓋の模様」に気を取られてしまって、自分も皆も心が血を流してる事実を思い遣らない。
そりゃお天道さまだって泣くさ。
いたましくて、かなしくて、泣くぜ。