郡司

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9/15/2024, 1:33:28 PM


「夜明け前はいちばん暗い」と聞いたのは何十年前だったろう? 今の世を見る限りでは、暗さの中のネオンもたけなわ…といった印象だ。

先日の「不可解な体調不良でかなり消耗」した理由と必要について、なんとなく理解する出来事があった。事実に基づいたことを知って尚、自分がこの現実で進む覚悟と選択を改めて確認する機会があったのだ。このところヘタレていた私を心配した者の来訪を受けて対話した。

もの悲しくさえある区別の観を持ちながら、子らの平穏と幸いを願う、「創世の女神」と表現するのが近いだろうか。対話を終えて暫く考えたが、彼女と私の観は違う気がする。何が違うのか……?

「本流である現実があって、あなたはそこにも居る」
知っている。確かに私はそこにも在る。
「ここは本流じゃない。私が理に背いたからここもできた。だから罰が当たった…」
技術の知を与えた?
「そう。そして本流には無い苦しみが顕れた」
互いのつながりを閉ざし、恩寵に背を向けたことか?
「そう。ここは閉ざされている。ここが顕れたと同時にここの理ができて、違う現実にスライドしたことに皆気づかない。私の意識もその前がどうだったかわからない。皆本流にも居てここにも居る。夢、幻、やがて消えてしまう、夢のようなここ」
ここは可能性の深いところだ。ここでしか開かない可能性がある。
「あなたはこれからここに居るの?」
そうだね……“あちら”の私はリスクヘッジのために居てもらおう。“この私”はこのまま行く。
「本流のあなたの人生にこの状況は無い。本流では一緒に居る人もある。ここは……理を違えた牢獄のようなところ」
スライドを起こしたライン(流れ)は徐々に収束統合しつつある。蓋然性は全ての可能性へ向かうもの。
「それでいいの? そう決めるのね…」

………どうやら、彼女と私は出自が違うようだ(当然だし珍しくもない)。彼女の観には罪と罰があり、私の観にそれは無い。時間も空間も無いのが私のホームフィールドだ。罪と罰は同時に発生しうることになり、罰が先もあり得る。罪なき罰など無い。罪は区別の都合が定義する「判断」に過ぎず、ゆえに絶対の罪などというものも無い。「罪と罰を基にした悲しみと苦痛」という表現のインデックスではなく、同じその事象に私は「様々な姿で顕れる、チャレンジにして成長の資材」というインデックスを付ける。

彼女は言う、「流刑地で燃え尽きるのか」と。
私は思う、「燃やし尽くすほどに白熱して、もっと生命を引き出す。限りなく」と。

創世の女神はたしかに創世者だった。しかし、生きる一人一人と多くの種族もまた、自分自身の世界を瞬間瞬間すべて作る創世者なのだ。だからこそ、希望の兆す物事への認識集中が、集合意識を大きく助ける。

「私」がたくさん居ることは知っている。揺るがず愛する者はどの私も変わらない。

9/12/2024, 3:30:28 PM

本気の恋………とは?
本気じゃない恋、とは?
えっ、「恋」って、恋であるなら全部本気じゃないの? 恋の定義がわからなくなるお題。

何が違うのか「本気の恋」と「本気じゃない恋」。恋ってガチじゃないの? 「なんちゃって恋ごっこ」みたいなものがあって、その上で「本気の恋」という表現があるの?

わからん………

9/12/2024, 1:16:28 PM

カレンダー

忘れっぽい私に、見開き一ヶ月のカレンダーノートは必需品だ。今年は来年のものをもう購入した。いつも年末になってから探していたが、小さなサイズのものしか残ってなかった。最近とみに視えにくい目には、大きなノートの方が楽だ。

このところ、自分のいろいろが一つずつ新しくなってきている。なんとなく記憶しているカレンダーの日付では、2週間ほど前からだ。
まず身体。どうしてこうなったと考えてもまだ解らない。苦しみ臥せて必死で呼吸を繋いだ。横隔膜をろくに動かせない5時間半、伴う頭痛、心拍異常。意識的集中力は全て息をすることに注いだ。それから丸二日間は異常な速さで身体の代謝が進んだ。今もまだ身体を動かすのに不確かさがある。しかし徐々に安定感が増してきているので、多分大丈夫。

持ち物や暮らしの道具の類も少しずつ新しく入れ替わってきている。前もって計画などはしていない。

確かに、私の人生は新しいフェーズに入ったのだろう。あれこれあってほぼ12年、社会人的活動からも離れていた。求人広告に記載されている文言もずいぶん変わったことに驚く今日このごろ。正直に言って新鮮だ。人の世は変わりゆくんだね。

9/8/2024, 6:25:08 AM

不調だ。
長年続いたルーティンが消えたことも不調の一因かもしれないし、自分で思っていたより気を張っていたのかもしれない。しばし休めってことなのか…?

9/4/2024, 7:48:19 AM

些細なことでも

些細なものごとを一つ一つクリアする積み重ねが、生活するということであり、生活は人生の拠点だ。年月のなかの積み重ねは、人間の地力に直結する。地力のある状態なら、さまざまな物事に対応することのできる安定感が出る。安定感が何をしてくれるのかというと、自分のできることをやろうとするときに、自分なりの「全力を遺憾なく発揮」するアクションを下支えしてくれる。“やり切る者は勝者”だ。他の誰かとの比較を絶した勝者なのだ。

勝者の誉れを掴むために救世主になる必要など無い。必要なのは、「自分で自分を行う」ことと、これまでと今の自分を育んで来るに関わった物事や人への感謝と、自分に優しくあることだ。

自分の手に届く範囲に、自分を育む最善のものはある。成長はステップの連続だからだ。次のステップは目の前のゴミを片付けることかもしれないし、あるいは誰かに電話をかけることかもしれない。多くの人が多分、「そんな些細なこと」と言ったり思ったりするようなものごとが、大事な「次の」ステップたり得る。劇的な嵐はたくさん壊してしまう。些細な風は安らぐ気持ちを呼び起こしたりする。

ものごとのサイズはほとんど関係ない。
ものごとの質は超重要だ。
些細なことのなかにも、その質を見ることが、先々の自分の実力になる。

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