郡司

Open App
9/3/2024, 6:28:18 AM

心の灯火

消えることのないもの。忘れていても消えない。思い出して驚く、その磐石のような確かさ。心の最奥にある灯火はいつもそうだ。

灯火は伝播してゆく。誰かのなかの灯火が明るく強くなるとき、周りにいる人のなかの灯火も明るく強くなる力を得る。

自分自身が灯火だと自覚している人はどれだけ在ろうか? 誰が何と言おうと考えようと、あなたが自覚していようがいまいが、あなたは灯火なのだよ。いのちは皆、それぞれがユニークな灯火なのだから。

人間の社会システムは言う。「お前の代わりはいくらでも居る」などと。「こちらの都合に合わなければお前はいらない」などと。まさに世迷い言だ。そんな考えを表明する集まりとは距離を置いて、あるいは縁を切って、歪みの少ない場所を求めるのが良い。

歪みのない灯火、どんなだろう?
歪みの強い灯火、どんなだろう?

どんな姿でも、温度はある。

9/1/2024, 9:26:43 AM

不完全な僕

伸びしろのある僕、って言いなおすべきだね。

言い方を裏返すだけで光の量が劇的に変わる。

みんながんばれ。

我もがんばる。

8/31/2024, 8:41:30 AM

香水

綺麗なガラスびんに詰められた、不思議なもの。
おばあちゃんやお母さんが普段は大事にしまって、大事なときに出して少しだけつけてるいい匂い。
いつもとちょっと違う華やかな空気の記憶とともにある、その時代の香り。鏡台が大活躍する日。
子どもの頃の香水の記憶は、そんな面影がある。

さて、香りのおしゃれが香水の本面目なのだが、当然皆さまよう。私も彷徨った時期があった。

香水の濃度では難しく感じてオー・ド・トワレ。
いい香りと思うものと、しっくりくるものは違う。
カボティーヌで若さを妬まれ、ミス・ジャガーじゃ使いにくくて通行止め。サンローランイグレッグは30年早過ぎる香り(祖母に貰ってもらった)。彷徨った果てに落ち着いたのは、ディオールのファーレンハイト。ラインナップが増えて現在は“クラシック”と付いている。…まあ、もう滅多に使わなくなってしまっているが。

昨年だったかその前だったか、海辺に打ち上げられた鯨から発見された大きなアンバーグリス塊を、どこかのメゾンが買い取ったことがニュースになった。

さて、このアンバーグリスというものの匂いを、うちの子ども達は嫌がる。間違いなく良い匂いに類するのだが、その由来がダメらしい。実は多くの日本の家庭で、昔は珍しくない香りだった。「龍涎香」で、“おばあちゃん家の仏間の匂い”なイメージだ。
そんな香りなので私は気分的に落ち着く。

鯨の何が香るのかというと、鯨が食べたイカのクチバシが鯨の腸管内を傷つけないように、腸管内に分泌される粘液でイカの硬いクチバシを包んで、ウンコと一緒に排出する粘液塊が香るのだ。「それがアンバーグリスって呼ばれていて、香水の原料に使われたりするんだよー」と、子どもに話したら、「鯨のウンコのにおい」などと言い出した。いや、ウンコじゃなくてね…と言っても聞きやせぬ。

なので、リラックスを求めて私が時々使っている練り香水も、「鯨のウンコのにおい」というコメントが飛んで来る。違うっつの。ちなみに、私の使っているやつは近似分子構造の合成香料で、鯨に由来する天然香料ではない。ますますウンコじゃないぞ。

香りは結局、精神状態に働きかける効果が高い。
引き締まった集中力のためにファーレンハイトを使い、落ち着いて静かに緩むためにアンバーグリスを使う。私はどうも、おばあちゃんやお母さん達みたいに上手に「おしゃれ」に取り込めていない。

華やかで素敵な、不思議な魔法の小びんというイメージを、子ども達に持たせる力量が無いようだ…

8/29/2024, 1:38:06 PM

言葉はいらない。ただ……

ある程度以上の年月を生きているうちには、どんな言葉も当てはめられないような気がしてしまう物事を経験することもある。

どんな言葉も野暮に感じられてしまうようなことも、無いでは無い。言葉を充てることなく、ただ「行間を見る」ような「体験の仕方」が、最も多くを受け取れることもある。

それは大切なときだ。言葉という形を介さないで、ただ深く広い大切な何かに、自分の心を開いているときだ。

ただ、そのようなものを何とか正確に、言葉に組み上げようとする試みには大いに意味深さがあると思う。それはまさに「突破」しようとする指向性の動きであり、「更なる理解へのインデックス」を生み出すから。

生きる根幹で起こることに言葉の理屈はいらない。ただ、その事象の核心や全体の奥に見えたものを言葉にすることができれば、その「概念のフレーム」はたくさんの人が共有可能な「間口」になる。

8/29/2024, 7:53:42 AM

突然の君の訪問

さて、わが家に来る人達は皆、全く突然現れる。
だいぶ「突然の訪問」に慣れてしまったくらいだ。
そして大抵は、のっぴきならない案件を携えている。
ときには当人自身が「のっぴきならない案件」そのものであることすらある。

物理的空間距離を無視。
次元領域の波動差も無視。
この現実での価値基準も無視。
たまに時間概念も無視。
地球の「二極性ゆえの顕れ」も無視。
「本当は何者」かも互いに無視。
ただ、皆自分の願いについては率直に述べる。

…みんな、いろいろする場所を間違ってないか?
誰かが顕れて「で、誰?」と問うのも実はかなり緊張するんだが。

そんなことが多過ぎて、「だいたいスタンダード」なものに安心するようになってしまっている。「だいたいスタンダードのアバウトな平穏」は重要だ。

Next