私の日記帳
日記の始まりは船の航海日誌だったという。
確かに、航海日誌よろしく日々記録を取っていた、祖母のバイタル。体調が良いときは基本的事項のノートのみ。体調不良やケガのあいだは特記ノートを併用する。関わる人全体で情報共有することで、「的外れな対処」を防げるし、医療の関わりもスムーズになる。
今日は初七日法要だった。
最初の二日間は何かつっかい棒が外れて転んだような困惑の中に居た。思考回路が涙漬け脳みたいになって止まることもあると知った。
静かに突然に、祖母は心臓疾患で呼吸を止めていた。緊急のしらせに駆け付け、祖母の右手を取ったら握り返してきた。息は止まっているのに、握り返してきた。身体はまだ温かさを残している。救急を呼び、指示により心臓マッサージ。到着は速く、すぐに救急隊に交代。救急隊が持ち込み計器で状態の確認をする。…と、「亡くなって時間が経っていると思われます。蘇生の可能性はほぼ無いと思われますが、搬送しますか?」と言った。
その後は警察による手続きで、夜には死体検案書が渡された。医師の所見によると、息を引き取った時間は救急隊到着の1時間ほど前、とあった。
1時間。握り返してきた右手。
1時間も待たせてしまった。
1時間も待っていてくれた。
それがどんなに大きなエネルギーを必要とするか、私は知っている。強い意志の力と、意志を支えるねがいが無ければ、到底なせないことであることを、私は知っている。
「もし、ああしていれば」という後悔もある。けど、待っていてくれたことを大きな杖として、だいじに持ってゆく。
…ここが日記帳みたいなものだ。こんな、楽しくもないことでも書ける。
鳥のように
昨日の昼前に祖母が逝去した。
自宅で息を引き取ったので、6時間が1時間に感じられるほどいろいろあった。
鳥が突然飛び立つような去り方だった。もともと心臓肥大があったが、まさかそれが引き金になるなんて思いもしていなかった。
祖父も、母も、祖母も、身体を枯らした。
いのちは鳥のように飛び立ってゆく。
鏡
人間は自分自身の考えを、自分の「外」に反映している。だから、自分自身はもちろん自分が関わるあらゆるものに「自分の考え・観念」をインパクトしている。影響力があるのだ、がっっっつりと。
私の目に映る世界は私が自分の中に持っている「世界はこういうもの」という「考え・解釈・観念フレーム」の反映だ。
さて…現在に私の見ている世界は、私個人に直接関わるのが限定的「部分」であるにせよ、ひどいものだ。言葉にできないほど、酷い。次々と、非道さはエスカレートしたものが展開され、見える世界のトーンを清明なものにしようと足掻くも、新たな闇が深くうごめく。これが鏡なのか?
人間の闇に、もしくは人間が撒いた闇の火種に反応した怒りと復讐心が顕す苦痛の坩堝が放つ残酷さに、飲み込まれそうな何人もの子どもたちの手を、つかんで留めるのが精いっぱいの現況。私はいったい何を、どのレベルで見ている…?
現実から逃げるためじゃない、現実に持ち込むためのvehicle。
消えるためじゃない、照らすためにある光。
こころ喰われるためじゃない、こころ育み成長するための資材である陰と闇。
疲れの自覚は諦めるためじゃない、休養の必要を満たすため。満ちて突破口を狙え。
どんな鏡像だろうと、自分自身の心がいまどこに居るかを知る地図にはなる、というのが現実ってやつのはずだ。現実は現在地を示すだけ…なら、目的地が消えたわけじゃない、きっと。海を目指していいはずだ。
現実は鏡、現実は現在地表示、現実は目的地までの地図。
環境は鏡、身体は鏡、出来事も鏡。
すべて必要な、チャレンジと癒し。
心の健康
薬を出すぐらいしか「作用」しない精神科。
治りたくないのに通院する人。
もちろんそんな人ばかりではないが。
さて、私は「心の健康」をいろいろ言うことはできない。皆さんがイメージし、定義する状態が「健康」であるなら、私は「キレッキレのキチガイ」だからだ。つける薬も無いとは私のことだ。
私に見える「本当のこと」を、“ああ、そうだね”とすんなり「聞く」ことすら、しない方々が大抵だろう。
まあいい。「まともでフツーな人間のふり」をするのには慣れている。
自分自身に嘘をつくのが「まともでフツー」
自分の心を無視して自分以外の要求に応えることに全エネルギーを振るのが「まともでフツー」
自分自身を「脇役あるいはモブ」と決め付けるのが「まともでフツー」
“まともでフツー”という評価を、自分以外の誰かに丸投げするのが「まともでフツー」
みんな誰のために生きてんだ?
自分自身のためにできる何かに振り向くこともしないで、自分を「モブ」扱いしちゃって、自分の価値(安っぽい表現だが)すら自分の采配全権を投げ出して、それは「こころ健康」なの?
自分の幸せに手を伸ばすことが、自分に見えるありのままをただ認めることが、自分の生きる日々を自分の感覚で歩むことが、「フツーじゃない」ならそれでいい。私という存在が生きるのは私という人格においてだけだ。
「ケンコーでマトモですね」なんて他人の評価は、実は役にも立たないただのコメントだ(もちろん、本当に良い意味で発せられることもある)。一時的な心の揺らぎは生きていればしょっちゅうある。状態は絶えず変わる。1秒たりとも心揺らぐことも無いのも、如何なんだ、と思う。
君の奏でる音楽
人の一人ひとりはアリアだ。
家族だと室内楽のようだし、大きな集団だとフルオケみたいだ。
だから調和して晴明に鳴り渡るとき感動が起こる。
世界はまさに鳴っている。いろいろな響きで。
どんな響きを自分の傍らに置きたいか、自分はどんなアリアをうたいたいか、みんなでどんな交響楽を鳴らしたいか、考えてみる…なんてことを世界中の一人ひとりが皆やれば、一日で世界は変わるだろう。…けど、人は皆さまざまだし、それは尊重されなければならないし、必要なことは守られなければならない。
響きはちゃんとある。足りなくなどならないし、消えたりしないから手遅れになどならない。だからこそ、君は君をうたいあげろ。自分自身の響きを深く探して見つけて、君にしか奏し得ないアリアであれ。存在の組曲が美しく顕れてくる。