終点
終点の気配がすると、少しく心躍る。ものごとの終点、私にとっては「課題の解決とレベルの収束」であることがほとんどだからだ。解放感と安心感がうっすらであっても響く。そして、その先がある。
うへぇ、まだあるの…と思うことはなくなった。何故なら、「かつて肉体を持ち、今は肉体を纏わない」たくさんの人達や、「今現在に肉体を持つけど、何処でも自由に行ったり来たりがフツー」な人達、「そもそも肉体は仮組みしか持たないで必要な時だけそれを使うのがデフォ」という少数派……などという人間関係に何年も関われば、自分自身も終わりなんか無いと思い知る。だから私の目標のひとつは、「ちゃんと生きて、ちゃんと死ぬ」ことなのだ。
存在としてできることは、生きていようが死んだ後だろうが変わらない。しかし、肉体という焦点を持っていればこそ、存分に発揮できる「チートスキル」があるので、そのチートが使える内にしかできないことを、「存命」のうちはやる。
「存命の終点」が、自分自身にとって最高に心躍るときになるように。
上手くいかなくたっていい
心を開いているのが難しい状況に出会う以外に、どうやって「より心を開いている」ことに取り組めるというのか…とは、ある師の言葉だ。
何がなんでも一度や二度で突破しろという意味ではない。上手くいかないことが教えてくれるものがある、という意味だ。なんでも上手くいくようでは、更なるブラッシュアップを望む機会すら掴みにくい。私などはその最たる者で、困って初めて努力を始める。「人間をダメにするナントカ」には、とっ捕まらないようにせねば…
そんなだから、最初から上手くいくやつはディスっておく。「失敗をろくに経験できんとは…器の問題か(キリッ)」とか。
まあ、それはさておいて、頑張る人も頑張らざるを得ない人も、巻き込まれて対処せざるを得ない人も自分自身のパターンに取り組む人も、くれぐれも自分に優しくあるべきだ。諦めない・投げ遣らない自分を最初に、そして最後まで応援してくれるのは、自分自身の優しさなのだ…って言うと「ひとりぼっちかよ、ブーイングだ!」という向きがありそうだから補足しておくが、基本的に「頑張る必要」のあるときは“自分の中の部分”に取り組むときだ。だからひとりの中だが孤独ではない。もし「自分の全人を以て取り組む」ことがあれば、その時点でそんな感覚を絶している。
上手くいかなくたっていい、と吹っ切り気味で踏み出す一歩は、とても力強い。もしかしたら人生に何度も無いかもしれない。
自分に優しく、できるなら心のどこかで楽しんで、新しい何かを掴むなら、上々あるいは最高だ。
蝶よ花よ
強い風にも損なわれるもののように、親が言わば「防風林」よろしく守りをかためて育てる様子が思い浮かぶ。最近ではとんと聞かなくなったが、昔は冗談めかして「蝶よ花よと大事に育てて…」と聞こえてくる言葉だった。
身近にそのような環境の子どももいなかったから、遠い遠い世界の話という印象がある。お姫様とか、政に関わらない王子様とか、あるいは比喩的にそのような人々。
庶民的感覚で「お姫様たち」に見える人々はどうだったのかと言うと、現実には“大切に育てられた”のとはちょっと違うようだ。ベクトルが違う。
日本での武家の姫様は、厳しく折り目正しく、「かくあるべし・皆の範たれ」が、生活の細かなところから生きざままで貫くことを要求された。私なら息苦しくて胸の病になりそうだ。
ヨーロッパの姫様は、自分らしさを制限されがちだったようだ。つまるところ、婚姻という政治的手札として優れることを要求された。多くの場合、頭が良いなど邪魔な資質として疎まれ、あれこれできる手腕など火種になりかねないとして、端から遠ざけられた。“侯爵令嬢”という看板のある姫様でも、「自分自身という個人の力」を封じられたので、無力感の虚しさの中にあることなど珍しくなかったようだ(フェミニズムという考え方は、このような扱われ方に対して静かに「NO」を行動する、というものだ。自主自立の力のあることと、自由に意志する尊厳があることを、広く知らせるというムーブメントだ)。
「蝶よ花よ」という言葉は、「大事に育てる」という意味合いで使われる。…が、私はうちの子ども達をそのようなニュアンスの中には置いていない。寧ろ、「蝶は蝶、花は花、あなたはあなた。蝶も花もそれぞれに良きものだけど、あなたの良さは蝶にも花にも収まるものではない。さっ、自分を鍛えるのよ!」などという方向へけしかける。ゆくゆくは、自分自身を大事に育み続けることができるように。
蝶より強く、花より大きく、美しい自分らしさを。
最初から決まっていた
…はて、そんなものがあるのかね?、と、すっとぼけるところかな。ものすごくスケールの大きなものごとですら、「不測の事態」というやつは発現する。
最初から決めていた、ならわかる。
選ばれし者などいない。
選んだ者達しかいない。
他人事みたいなツラすんな。
自分の今を自分の手に握れ。
お客さん根性をゴミ箱に捨ててしまえ。
「“選ばないこと”を選ぶ」な。
自分が何者かは自分で決めているって気づけ。
いつだって路線変更が可能だ。
いつだって遅くない。決して。
最初から決まっていることと言えばひとつある。
みんないつかは、「自分自身になる」ってことだ。
願わくは、喜びと慈悲の心が、その道行きに光と幸いを豊かにもたらしてくれるように。
太陽
太陽に訊いてみる。「私は何にがっかりしているんだろう?」
自分の心の中に、平和な明るさと「ただ在る生命感」が、翳ることなく広がっていたとき、私はそれを自覚できなかった。翳って初めて、その響きがどれほど大切なものか思い知った。安心のなかに眠ることも無くなって、平和な状態とは言い難いたくさんの精神波に一日中ぶっ叩かれる。
「こっち来れば良いのに。浴びて元気を回復なさい」と、太陽は響く。
私は見るべきを見たのか?
「見たら何をする? それが、当面の答え」
惨いなんて言葉が生ぬるいほど酷いものだよ。この現実事象構造を知っているからあんなに惨くて、それが茶番だと知らないからやり続ける。茶番のくせに、戒めを無視して侵害してる。
「どうしたいか湧いてくるかい?」
物理を尽くしたところでいたちごっこだよ。
問答無用。上面に取り付く島など無いから。
高次作用。理解もされないが都合も良いから。
…それに、それに……