普通なら…いや、身体の力が若く、各組織のはたらきとバイタルのバランスが許容範囲に収まっているなら絶対に、些細な現れとして通り過ぎる「つまらない」ものが、命にかかわる大問題になるときがある。その一つが、高齢者の呼吸確保だ。わが家の最長老は最近、危機に瀕した。
ここ数日、暑さ疲れの影響かその問題にかかりきりの時間が多い。サクション(呼吸確保のための口腔内ケア。粘稠度の高い唾液を吸引除去する作業。介護制度上では訪問看護によるフローのみ)を依頼するかどうかの検討と対症的試行錯誤。仕方ないことではあるが、医療行為と定義されるその作業は完全に医療機関都合が優先され、「今、助けが要る」ときにそれは来ない。名目だけ形にした選択肢で、はっきり言って全く役に立たない。しかも、「こんなこと」を医療機関は病室利用の必要としては受け付けない。
当方なりの「たぶん最善の対処」を決めた。一般市井にある同様機能の機械を購入し、いつでも家族サイドの判断に全責任を置いて、「必要なとき必要を満たす」ことにした…直後にたまたまやって来たケアマネジャーは、機械の箱を見た瞬間に全て理解した様子。えっ、その反応…もしかしてこうする家族って多いの…? 聞いてみたら多いらしい。…そうだよね、だってこれ以外に有効な方法無いもん。
とりあえず、最悪のインパクトをくらわないで進めそうな流れを掴むことはできた。しかし確実に下り坂にある。せめて、除夜の鐘を越えるようなときくらいまで……などと思うのは身勝手なのだろう。「完了」をいつにするかは、本人の裁量だから。
どこかから、「心の準備をしろ」なんて響きが湧く。
困った。私はまだぺーぺーのままだ…
目が覚めるまでに
「眠り」と「目覚め」。時間軸とか尺とか次元とか、いろいろ異なる状況下にある。たぶん。
目が覚めるまでに、キリの良いところまでやるべきことをやりおおせてる。たぶん。
「戻り」は、帰還する時空座標の確定と、「身体という事象焦点」への再定着を、正確に実行する。たぶん。
医師が臨終宣言をしてもなお、寝息を立てている親戚があった。呼吸の動きは全く無い。けれども、元気そうな寝息が聞こえていた。訃報を受けて次々現れる人の中にも、「ちょっと、寝息立ててるじゃないの。でも…確かに息してないわね」と、困惑する人が複数いた。とりあえず、ちゃんと状態の自覚に至るのが必要なんじゃないかという話になり、いちばん「話のできそうなの」は誰か…皆の目線の先に実の娘。「やだよ、おとうは死んだんだよって本人に知らせるなんて」と拒否。妻に目線が移動したら「私も無理」と拒否。結局、心理的距離のある姻戚の者が、本人に「知らせた」。なんのことはない、「揺り動かして目を覚ましてもらった」のだ。そして本人の曰く、“まったく気付かなかった。何も苦しくなかった。自分でもびっくりしている”と。再定着に失敗してしまったかたちで亡くなったかもしれない。ともあれ、人生への万感や家族の心への衝撃あれども、ほのぼのした空気のなかで「次へと目を覚まして行った」人だった。
病室
母は窓際のベッドだった。7階。見慣れた街も高さが違うとぱっと見では土地勘に合致しない。二つ離れた病室には祖父が入院していて、見舞いは行ったり来たりだった。違う階に兄も入院していた。「うちどうなってるんだっていう感じだよね」「そうだなあ」などと、兄と祖父のやり取りもあった。兄は暇が高じて祖父の病室に入り浸っていたらしい。私は祖母の介護があるのであまり長居できない。下の子を保育園に迎えにも行かなくては。私が祖母の家に行けば、入れ替わりで父が病室に来る。
できるだけ、悲壮感に近寄らないようにしていた。階にもよるが、入院病棟の各病室に悲壮感は既に十分ありすぎるくらいだった。そんな気持になるのも仕方ない種類の病の人が居る区画だった。
ベソをかきながら、祖父を、母を、家に連れて帰った。
ある程度元気でもすごく元気でも、「じゃ!」なんて言いながら、生きてる家族を家に連れて帰ることができるのは幸せだと、本当に思う。あまり静かにしていると、病室に漂う感情にコテンパンにやられそうだった。
どんな結果でも、いちばん頑張った人は病室から帰った人だ。
だから、一人でいたい
自分自身のためだけに使う時間がゼロになって久しい。自分が何を必要としているか、すぐにはわからなくなっているようだ。
15分、静かに集中する時間を15分取れるなら、大夫違うかもしれないが、現在のところ同時作業でほとんどの物事をすすめている。対応力や作業能力を鍛えることになるのだろうが、なかなかしんどい。
澄んだ瞳
「あーらぁ、きれいな眼をしてるって思ってたけど、眼(視力)が悪いのね、なぁーんだフフッ」…と、言われたことがある。やたらに嬉しそうに言っていた。何が嬉しいのかさっぱりわからんが。
一方で、「死んだ魚みたいな眼してるよね」とニヤニヤする人にも会ったことがある。疲労してグダグダな状態だったときだ。言った人はヒマだったんだろう。
「開いた瞳孔で大丈夫だって言っても説得力ない」と呆れられたこともある。脳貧血状態を耐えて意識を保つために全身に力を入れていたときだ。心配かけたのはすまなかった、うん。
“目は口ほどにものを言う”という言葉がある。
疲れたときに眼がイキイキしないのは当たり前だし、こころ喜ぶときは眼がキラキラするのが当たり前だ。バイタル変動のように、眼にはこころの表情がくるくると顕れる。…まあ全身からも響きが出るんだけどね。でも目ほど明らかとは限らない。
人が澄んだ瞳をするとき。どんなときだろう…
たぶん、「ありのまま見ている」ときなのでは。あらためて何かを発するでもなく、ただ自分でいて、ありのままを見ているとき。あるいは、静かにオープンでいるとき。色づけフィルタが無いから澄んでいるときだ。そういえば、赤子の目は澄んでいる。
人間が生きてゆくとき、しばしばフィルタは必要なものだと思う。状況・状態に応じてサングラスが必要なときがあるように。誰しもみんな、澄んだ瞳がデフォルトで、それぞれがいろいろな必要をもってフィルタをかける。
いろいろフィルタの瞳も、澄んだ瞳も、重要なしらせのインデックスかもしれない。