嵐が来ようとも……嵐が来るならしっかり備えて取るべき行動を準備し、落ち着いて状況の推移を見ることが第一、と考えずにはいられないトシと立場になった。命だいじに。
さて、心理的な嵐というやつもあるし、私個人の本音では、実際の気候の嵐は大好きだ。「嵐という程度」のものならば。“もっとめちゃくちゃに荒れてしまえ”…などと本当に思う。仕事で移動中の秋の山間部で、稲妻・雨・霙(みぞれ)・ひょう・雪が、ぐるぐる大回りする突風と一緒に全部盛りで顕れた短い時間、ものすごく楽しかった。運転している車のタイヤは夏タイヤ。道路はどんどん白くなってゆく。ハンドリングをミスれば事故だ。いいぞ、すっごい嵐だ!…よい子は真似してはいけませんよ。
「嵐が来ようとも」という言いまわしは、「何らかの障害が顕れたとしても」目指すところをあきらめない、という決意や心的態度を表現・表明するときに使われる。「嵐」という流れをすら、成長のジャンプアップに使う人も居る。
こうして考えてみると、嵐というやつは「くっきり」しているな、と思う。ダラダラとした苛酷さでなく、そのぶん瞬発力が通用しそうだ。
お祭り
鎮魂のまつり 清め幸うまつり 豊饒感謝のまつり
私の暮らすまちでの、社のまつりはこんなところ。他にイベントとしての花のまつり、商工会主催のまつり、広域参加の収穫と食のまつり、雪でいろいろ作る冬のまつり。
「お祭り」という言葉に、うちの子ども達がワクワクするのは、もちろんテキ屋の出店や花火大会だ。上の子どもがまだ小さかった頃、「お祭り=出店」以上の行事であることを知ってほしいと考え、6月の護国神社祭に催される奉納の雅楽演奏にも連れて行った。本殿前での奉納だから、お詣りもすぐできる。
暑い日だった。境内も当たり前に暑い。日陰に子どもを連れて、そこから奉納楽を観ることにした。奏者達のすぐ横には戦没者遺族席が設けられていて、そこから少し離れた位置だった。
奉納楽が始まると涼しくなって、天気が崩れ出したのかと私は空を見上げた。昔からこの祭りには涙雨がついて回る。雨が降るなら場所を変えねば、と考えた。…が、空は晴れて青い。本殿前の風はますます冷たくなっている。子どもも寒がり始めた。確かに寒い。半袖で居て良い状況ではない。風邪ひいちゃたいへんだ、と考えて、子どもを連れ帰ることに決め鳥居に向かった。本殿前には門があり、そこから鳥居方向へ出ると、むあっと暑さに包まれた。相変わらず空は晴れて太陽は輝いている。振り返って見る本殿前の奉納楽は続いている…
子どもは鳥居前の出店の並びにたちまち気を取られて私の手を引いた。さて仕方ない、楽しい思い出のウェイトを大きくしておかないとな。子どものうちは悲しみ深い報恩の祭りより、もっと明るい祭りが良いようだ。…その度に財布が痩せるけど…
神様が舞い降りてきてこう言った
「この鏡を私だと思って祀りなさい」と、天照大神がおっしゃったとか書いてあるのは日本書紀だったろうか…?
神棚の鏡、御神体とされる。
鏡に映るものを見れば、自分が映っている。礼を失することの無いよう、正面に立って礼拝(らいはい)すれば、必ず自分が映ることになる。
他方、キリスト教では祈りの際に「十字をきる」動作がある。神を呼ばわりながら十字を胸の前で描く。個人的見解だが、あの十字において最も重要なのは、「十字の交点」だ。空間的広がりの横と、時間的連なりの縦。その交点は「認識の始点」であり、「現実事象が展開する始点」でもある。胸の前で十字をきるとき、その交点は上胸部、つまりハート(心)の位置に合致している。そここそが、イエスの言う「生命の門」だ。なるほど「狭き門」である。神はその奥に坐すのだ。
仏教の始祖ゴータマは、仏性を擬人化して形に取ることを禁じた。つまり、最初の頃は仏像など禁じられていたのだ。他ならぬゴータマの指導である。仏教に「神という概念」は無い。万物のなかに仏性があり、凡夫のなかに啓かれるべき仏性がある。仏性こそが真なる実在であり、その仏性がすべてを創造する…「山川草木悉皆成仏、天上天下唯我独尊」の意味するところだ。
さて、日本人になじみ深いものを三つ並べてみたが、興味深いのは「神性」「仏性」は「内なるところのもの」として示されていることだ。
エゴを超えて顕れる「神」は、何と言うだろう。「内なるところに神の坐す」あなたのなかの深い場所に、実はいつも輝いているものは何だろう。それが、「神様が言いたいこと」だ。
誰かのためになるならば
自分自身であれ。より自分自身になることは、自分のためにもなるし、「誰か」どころか皆のために、よりよきなにかを差し出せる。これは「天秤」だの「二極性」だのを絶した真実だ。手の届くところに「次の段」がある。遠いものなんかじゃない。
だから今日も進もう。
鳥かご
私が鳥で、鳥かごの中に入れられたら、どう感じるだろう…?
今の時代は、人間が鳥を飼うときはペットショップで出会うのが大多数だろうから、もしかしたらケージや鳥かご以外の世界を知らなくて、「空を想う」こと自体が無いかもしれない。
餌と水が絶えず、天敵の脅威も遠く、人間が危険でないなら、特に思うところも無いかもしれない。
そして、生きるサバイバルから隔絶した認識のすみっこで、人間たちが自ら「鳥かごのような制限」のなかに居ることに気付いてしまうかもしれない。
人間たちは己の持ち合わせた力(翼)を全開で使うことが無い
自分のように
人間たちは大空(生きものに当然ある内的自由)がそこにあっても自由を見ない
自分のように
人間たちは退屈そうだ
自分のように
みんなそうなのかな
なんだかモヤモヤするけど
よくわからないな…
人間と動物の関わり方はいろいろだから、鳥かごが閉ざされていないただのねぐらで、人間たちと楽しく過ごしてる鳥も居るだろう、たぶん。私はその辺りに明るさを見ることにしよう。
ただね、「鳥かご」がお題になると、焦点が鳥じゃなく鳥かごになっちゃうよね。“鳥かごに鳥を閉じ込めるように、肉体的物理認識に自分を閉じ込めて、そこを己の限界とする”ような、息苦しい感じは否めないね。
私というトリは、でっかいシマフクロウになって、華奢な鳥かごなんざ破って出てくぜ。