神様が舞い降りてきてこう言った
「この鏡を私だと思って祀りなさい」と、天照大神がおっしゃったとか書いてあるのは日本書紀だったろうか…?
神棚の鏡、御神体とされる。
鏡に映るものを見れば、自分が映っている。礼を失することの無いよう、正面に立って礼拝(らいはい)すれば、必ず自分が映ることになる。
他方、キリスト教では祈りの際に「十字をきる」動作がある。神を呼ばわりながら十字を胸の前で描く。個人的見解だが、あの十字において最も重要なのは、「十字の交点」だ。空間的広がりの横と、時間的連なりの縦。その交点は「認識の始点」であり、「現実事象が展開する始点」でもある。胸の前で十字をきるとき、その交点は上胸部、つまりハート(心)の位置に合致している。そここそが、イエスの言う「生命の門」だ。なるほど「狭き門」である。神はその奥に坐すのだ。
仏教の始祖ゴータマは、仏性を擬人化して形に取ることを禁じた。つまり、最初の頃は仏像など禁じられていたのだ。他ならぬゴータマの指導である。仏教に「神という概念」は無い。万物のなかに仏性があり、凡夫のなかに啓かれるべき仏性がある。仏性こそが真なる実在であり、その仏性がすべてを創造する…「山川草木悉皆成仏、天上天下唯我独尊」の意味するところだ。
さて、日本人になじみ深いものを三つ並べてみたが、興味深いのは「神性」「仏性」は「内なるところのもの」として示されていることだ。
エゴを超えて顕れる「神」は、何と言うだろう。「内なるところに神の坐す」あなたのなかの深い場所に、実はいつも輝いているものは何だろう。それが、「神様が言いたいこと」だ。
7/27/2024, 3:08:37 PM