手を取り合って
つーん、と互いに目も合わせないだろうことが簡単に予想できてしまう両者があるとき、両者それぞれにつながりの間口を持ってもらうには、何ができるだろう。およそ思いがけなかった解決と調和の流れが奔るさまは、明るく晴れやかな、そこまででないにせよ、希望と活発な平和の気配を感じられるものだろう。
「まともに考えろ、状況の全体をきめ細かく見ろ、しのごの言ってないで手を取り合わんかこのバカども」…と、どストレートに言ったところで耳の蓋が閉じるだけだ。「部長由来のワクチン“莫迦門”」は夢のまた夢。
手を取り合えば、永く尊敬を受ける英雄になれるのに。
優越感、劣等感
ものさしではかる次元に無いものをものさし当てる混同。…なのだが、私を含め誰も彼も皆、子どもの頃からものさしを当てられながら進んできた。「優劣があるんだ」と思い込んでしまう程度には。
だいたい人間の優劣とはなんだろう。「優れる」「劣る」などと言う表現は、当人以外の「勝手都合」を基にしている感じがする。「フツーかキチガイか、その真を誰が担保できるかなんて悪魔の証明だ」というやつと似たものか。
差異はある。寧ろ無ければ何かいびつだ。
優劣という考えは、きわめて限定的な範疇に顔を出す、しかも視野の狭いなかでの「比較」にすぎないのに、言葉の質が低いせいか、まるで世界基準みたいな錯覚作用を多くの人に及ぼす。
つまるところ「優劣」は幻影、だと考える。
1件のLINE
LINEはほとんど使わない。面倒くさそうだと避けていたが、子どもが保育園に通っていたときの「ママ達グルーピング」に捕まってしまった。卒園後はグループ内やり取りは全く無い。動きすら無い。他に仲良しママ達でグループを作ったんだろう。そんなものだ。
もう消えてもいいかな、と思ってアカウントを削除しようと考えていたら、友達が「LINE使えるようにしといて」と言ってきた。何故、と訊いたら「前(だいぶ前)に電話したら通じなかったから」と。…まあそういうこともある。
突然LINEに、遠くに暮らす従姉妹が現れた。なかなか頻繁でなくなった親戚とのやり取りの間口になってしまった。電話までLINEでかかって来る。こちら側にもあちらの消息を気にする親族が居る手前、LINEを削れなくなった。
まもなくきょうだいや他のいとこもLINE電話でかけて来るようになった。…これは削ると面倒くさいことになりそうだ。なので、LINEは置いてある。
1件のLINEが重要な連絡になったことは無い。みんな大事な連絡は普通の電話でかけて来る。私の物言いが気楽な雑談にそぐわないことが多いからか、「だべりんぐ」でやり取りが続くことはまず無い。
目の前に居れば、他愛ない話が気楽に続くんだけどね。
私の当たり前………はて、何じゃったろうな。私に見えている世界は以前とかなり違ってしまっている。もちろん、常識的に振る舞って無難に生活の現実を処理しているし、視覚は物理的現実を捉えるのが大方だ。
清明な光の明るさも深い闇の暗さも同様に活発さを示し、現実を構成している複層的エネルギーはもう境界を失っている。…だからこそできることもあるのだが、以前は強く美しい光にフォーカスしていれば安泰な状態だったのが、いまでは「闇を裁く」ことなどまったくできない。闇のなかに眠る光と風を探し、闇のなかで精いっぱいの心の群れに温度を引き出す試みは、小さくとも「レベルいっぱい」の努力を以てひた歩く昏い道のようだ。
身体の有る無しは「区別」として小さなタグになり、そんな顕れに関わらず、意図するところと「観」こそが「有効な実質」と考えるようになった。超高齢の青年も小さな老成も構造の真実を知りながらの迷いも、自由なこころも、すべて確かに顕れている。
私のなかには光も、深い闇もある。適切なフォースであり続けるための凝視が、いまの私の当たり前だ…
七夕
各地に諸説あるが、太陰暦では農事暦のひとつでもあったという七夕。旧暦では本日はまだ6月2日だ。現在の七夕は農事暦としての機能を持たない。
新婚夫婦が仕事を放り出し、世話されない牛たちは痩せ細り、布地が織り上げられないことは不足を招いた。そりゃお父様(天帝)が怒って当然。まじめに仕事に勤しめば一年に一度だけ会えるにしても、カササギの橋とは念入りな制限だ。詩経にも出ているふたり、大昔だね。
まだ織姫と彦星の物語はほのぼのしいと思う。
「恋する男という悪魔」、と言えなくもない者たちが、私の住処に来ては各々「愛を叫ぶ」。“彼女以外はどうでもいい”と宣うところは共通している。まさに彦星だ。一人は“俺の嫁自慢”を来る度にぶち上げ、一人は私に注文をつける。曰く、“ものの見方が広がる文言をあの娘に与えないで”と。翼を自覚させてくれるな、自分から離れてしまう、と。気持はわかる。だが賛同はできぬ。恋は恋だがまだ愛ではない。愛へ突き抜けろ、友よ。こころを尽くし表現を豊かに、自分を信じ彼女を信じてその心へ向かえ…
今のありのままを喜んであげてほしいと、婆の私は思うのだ…。私の出す文言は、すべて人間に隠されてなどいない事実だ。子ども達もあるのだから、できる限り日常のやりとりのなかにエッセンスをぶちこむ。日常は生きる場所だ。誰しもそうであるように、私の日常もまた、くだらなくなどないし、つまらないものなんかじゃない。私の日常に転がり込んできた子達に、それを伏せることは無理なのだ。
七夕にはとかく、「ロマンチックフィルター」をかけた再会ばかりクローズアップされるが、真に“ふたりぼっち”で生き続けることなど、まず無い。「どうでもいい」を通せないのだ。織姫と彦星にはまだ先のゆくえがありそうにも思える。