降り止まない雨、梅雨のことかな…?
私の住む土地には、基本的に梅雨は無い……ところだったのだが、1995年初夏の長雨(蝦夷梅雨などと呼ばれるらしい)あたりから、初夏の雨や、はっきりしない天気が増えた。
いつにない湿度、立ち込めて留まるラベンダーの香り、雨、雨、雨。
……というところまでは思い出したが、それ以上の印象が無い。雨がやまなくても、暮らしのサイクルは通常運転で巡る。そういえば、雨の直後の太陽の光は不思議にきれいだと感じる。Madonnaの「RAIN」でも太陽が出て来る。
優しく洗い流し、照らせ
あの頃の私へ
自分についてくる「自分」から逃げるな、害は無い。どのみち自分からは逃れられない。それが何を必要としているのか、立ち止まって追いつくのを待ち、静かに眺めてみるんだ。そのうちわかる。
絶望してもいい。でも絶望しきるな。自分のなかにどんなねがいがあるのか、いつも探せ。底深くから続いている光る糸を辿れ。糸の端っこは涙のなかにある。迷子にはならないから大丈夫だ。
気づいているだろう、どんなものも天秤に乗っている。右に過酷の辛さが、左に過酷が育てる資質が。両方は釣り合っている。あるいは、右に幸運の喜びが、左に幸いへの感謝が。これも釣り合っている。中心に立って両方ともちゃんと見ろ。左右合わせて、はじめて成長の糧になる。
「求めよ、さらば与えられん」は本当だ。餓えてばかりいなくていい。
ちゃんと生きられる。今は小さな一点の光も、歩くうちに一条の光になるし、さらに歩くうちには大きな星の光になる。
また明日
毎日の介護ルーティンを終えて祖母の家を出るとき、必ずというほど玄関の外まで父が見送りに出てきてくれる。祖父が元気だった頃は祖父がそうした。私は毎日「また明日ね」と言って帰る。
ただのあいさつの音声だが、これは「明日もひとりにしない」約束の結び目だ。祖母の介護が始まったとき、子世代はすぐに支えることができなかった。祖父の齢九十でのハイパー老老介護に、片棒担ぐ者の一人も無いのでは、いくら頑健な祖父でもあっという間に心が折れてしまう。要介護となるきっかけの骨折治療入院を終えて帰宅した祖母はもう歩きが不確かだった。転びかけた祖母を抱きとめた日から、私が介護者になった。
個人的には、要介護者の身体の世話や家事の処理などに大変さは感じない。私の子ども達にしたのと同じ世話だから、作業に迷いも無い。むしろ、認知症を顕している祖母の周辺家族たちのメンタルにバランスが取れるようにすることのほうが、めっちゃ大変だった。みんな「認知症」に対して恐いイメージを持っていた。
「妻」は消えず、「母」も消えない。もちろん「祖母」も消えてない。認知症を顕している人も、その傍にいる人も、ひとりにしない。
また明日ね。
透明
透き通るもの
包み隠しのない
さて、全ての人の考えや状況が包み隠しなく見えるようになったら、たぶん世は大混乱になるだろう。ただ、魂が伏せるものは誰にも覗けない。
卑近なところで、私を取り巻く日常にある状況の全てを、私の認識からはどう見えているかを正直かつ誠実に言葉で表せば、大抵の人から私は「キチガイ認定」されるだろう。なんならその勢いで「統合失調症」の診断書をゲットし、生活保護認定を受けるのも簡単かもしれない。何故なら、私に見えているありようは、「かくあれかし」という「人間社会内の都合テンプレート」からは大きく逸脱していると見なされるであろうから。なので私は、周囲社会内に漂う「バイアス」に調子を合わせる。まだこの現実領域に、無難な側面を保って居続ける必要があるからだ。
「透明であること、透明性確保」が良い働きをするものごとと、そうでないものごとがある。何かの映画で、子どもが叫んでいた。「みんな見たいものしか見ないから!」と。確かにそうだと思う。でも、「見えない、感じない」ことはまた、心を護るはたらきもあるのだ。ちょうど良さは、それぞれだから。
透明の効用はいくつもある。
理想のあなた…?
理想の個人とは、「純度の高い在り方」なのかな、と思う。
然るに、自分自身の内側を啓いて「自分自身である」のを現実のなかに顕すが最上にして最高。周りの人も地域も、ひいては世界も、その恩恵を受ける。それができるのは各個人、その人自身だけだ。
…ってところで何故「あなた」?
私が誰かに「理想のあなた」などと言われたら、まずその意味するところは何かを問うだろう。何を言いたいのかを。コノオダイ、イミワカラナイヨ。
もし、「私が理想とするあなたはね…」なんて始まれば、“はい、あーんして”と何か大きめおやつを頬張らせて、とっとと逃げる。他人からの「形の押し付け」なんて、呪い以外の何物でもないからだ。
「理想像への夢」が暴走している人間の認識齟齬は、ときに恐ろしい。私は昔、所謂“アラサー女子”に追いかけられたことがある。私が男性に見えたそうだ。…落ち着いたほうが、良い御縁を結べますよ。一見、誰もが同じものを同じように見ているようでいて、実は人それぞれ何がどう見えているかは皆違う。でもそれで良いのだ、多分。
理想が湧くのは、それが実際にちゃんと在るからだ。「こんなふうになりたい」と思うのは、「こんなふう」が自分自身の中に資質として既にあるものだ。本当に無いなら、そこに共鳴して引きつけられることも無い。これは確かなことだ。両手に根気を、心に辛抱強さを持って、輝くタネが芽吹くのを目指す道行きの姿が既に、理想を表現している。
そう思う。