風に身をまかせ…幸い、風で飛ばされる経験は今のところ無い。竜巻に出くわしたことも無いし。
風まかせなら植物の綿毛とかかな。
子どもが小さかった頃、「それゆけ!アンパンマン」をテレビで見ていたのだが、ある回で“タンポポちゃんとロールパンナ”というお話があった。
風に身をまかせて旅するタンポポちゃんに出会ったロールパンナは、タンポポちゃんが育ちよい着地点に落ち着けるように旅について行く。小川の水流に巻き込まれないようにしたり、湖に落ちないようにしたり、「その状況は先が見えている(芽吹くことなくタンポポちゃんは生涯を終えてしまう)」事態が発生するたびに、風を起こし(ロールパンナのわざ)、旅を続けさせる。
タンポポちゃんは不思議がる。「タンポポは風さんまかせ、どんな場所であろうと風さん次第。なのに、どうして助けてくれるのですか」と。ロールパンナは答えない。タンポポちゃんに問われた後も、やっぱり助ける。
この回は印象強くて、たまに思い出す。大人的には、あれこれと私見があるのだが、ここに書くのも無粋に過ぎる気がするのだ。ロールパンナは首尾一貫して助け続け、タンポポちゃんはそれを止めない。この回のセリフはものすごく少ない。ただ、ロールパンナというキャラクターは、葛藤を持っている。「何が善で、何が悪なのか。自分の中には両方の心がある」と。
今も、この回のおはなしには言葉に表しにくい何かを感じる。ロールパンナ自身も風の中に居る。
失われた時間かぁ…
先日、私は今に続く四半世紀の間が、喪失と同様のものなのかどうか考えねばならない問題にぶち当たった。全体の流れと状況の推移、現実の構造に鑑みて一つ一つの要素を遡っては戻り、各要素の相関関係と既に顕現したものと、関わる各々が今後に発現する可能性の最上のものは何か、この現実ラインの状況は全くイレギュラーな割り込みかどうか、なぜ私だったのか。
侮辱的な動機を以てこんなものを走らせているのなら全部消し飛ばしてくれるわ、と考えながら猫又に尋問をかけ、状況を再確認し、全体像を俯瞰し、本質を凝視して、結果、喪失ではないと結論した。
「過ぎてきた」時間が活きるものになるかどうか、ひとえに人間自身の選択と心的態度が決める。たぶん。活きるものにするために、みっともないほどの執念を燃やすことも、ときには必要だ。
さあ、暗雲を払うぜ。
私のだいじな仕事は別にあるのだから。こんなものに邪魔などさせぬよ。
子どものままで
自分のなかの「子ども」を表に出すのは楽しい。大人を自称している人や、成長段階の「脱皮・新構築」時期の人などからは冷ややかなナナメ目線が返ってくるので、「大人」と書いたお面をかぶる。家に居るときは子ども達が居るから、かまってもらえて楽しい。
思えば、人員の多い職場に勤めたときはいつも、隙あらば同僚達ともきゃもきゃ遊び、仕事に取り組むときだけ「大人」と書いたお面をかぶっていた……と書くと、“ダメな大人”と認定されそうだが、実感として、その方が仕事への集中力をスムーズに発揮できる。メリハリのせいか、いきなり仕事スイッチへ切り替えることができた。「子ども」よろしく遊ぶと、「大人」ならどう振る舞うかという「対比」を取りやすい。
生きやすくいるために「大人」と書いたお面を持つのはスキルだが、それも子どもゴコロというベースがあって初めて成立する。きっちりと子どもをやらないで時間を過ごしても、しっかりと大人になるわけが無い。しばしば、世では「子どもなんて」などと、ワケの解らん否定性のモヤのようなものが闊歩していたりするが、その風体と言ったら「子どももやれず、然るべくして、大人にもなれない、つまらぬ都合につながれて、くさくさするから通りがかりの誰かに噛みついてはゴネるもの」…
子どもゴコロは明るく健やかで力強く、周りの人達にも華やかで安定的な活力を発揮させる。
子どもゴコロは生涯消えない。
成長とともに消えるべきものではない。寧ろ「大人であるに必要な力と覚悟」のタネなのだ。…なんか以前にもこんなことを書いたような…まあいい。
本当に自分自身の意図と自発性・自律性で進んでいる皆さん、あなたの子どもゴコロは今このときも、元気でしょ?
モンシロチョウが頭の中でほわふわひら、暖かい日なたの平和に現を抜かしてたら事件は起こった。自分の人生が喰われたものだと思いたくない。割り込みに喪失したものがあるかもしれぬなどと、ともすれば悲しく、悔しいような感情に、内側の天秤が傾きそうになる。怒りが煮える前に、掴める本質を見つけなければ…
自分自身からの愛を求める「未だ照らされていない」心は、叫んですらいるのだけど、声なき声は知らんぷりの憂き目に遭いやすい。そんな状態であるばかりに、周りをも巻き込む苦痛と悲しみを顕現し、内側の被害者意識は無責任を決め込み、自分ばかりが不幸だと自慢を始める。安い自慢だ、続きを言ってみろ。
私のアンカーを損なうな。バケモノを見なくて済む安寧を選ぶが良い。「やられてきたから仕方ない」…? “気が合うな、私もだよ”などと「私」が響き始める前に、己の足元で呻く痛みを直視しろ。
愛は静かに自ら立つ。力に責を持ち、結果を受け止め、エゴの表面を突き抜けて、いのちを直視する。内側の叫びに応えろ。ほかならぬ自分自身じゃないか。バランスを保て。だいじなものがあるなら。
まだアンカーは無傷だ
落ち着け
目を開け
しっかり立て
忘れられない、いつまでも
私の場合、忘れられない印象の人は少ないのだが、ただ見ただけなのに今でも忘れられない、鮮やかな人の話を。1995年のことだ。
その人は、あきらかに小学生と覚しき子ども達を8~9人連れていた。いや、連れていたというより、子ども達が来たがったので保護者的についてきたようだった。
老齢の女性で、姿勢よく、グレーの髪は低く団子にまとめ、薄い藤色に薄青系の濃淡が上品な訪問着(和服)を銀の帯でお太鼓に結び、きれいに着付けた姿がとても美しかった。若い頃から美人でいらしたに違いない。優しそうでもある。
あら素敵、と思いながら私は心配もした。
その場所は真駒内陸上競技場のスタンド。夏のさなか、これから日暮れといえども和服は結構に暑いのではなかろうか…? 同行者は子ども達。私は気になってしまい、その後もその人の様子をしばしば見た。
その日、私はLIVEのためにそこに来ていた。兄がチケットを友達と手分けして得たものの、枚数に人数が足りないからお前も来い、と。鷹揚な時代のロックのコンサートだ。そう、ロックなのだ。そこに件の女性である。
さて、LIVEの開始からしばらく経ち、私はまたその人の居る方を見た。驚いた。彼女は両足を肩幅に置いて、両腕を上に伸ばしていた。グーで。とても楽しそうだ。私は、クレーンバケットに乗って一生懸命歌っているフロントマンより彼女の姿に夢中になった。なんてクレイジーでなんて素敵! 彼女は本当に楽しんでいて、私のように後ろから見ていた若い者達を嬉しい気持ちにさせてしまったのだ。老婦人、和装の着こなしも姿勢も完璧。その姿でROCKのLIVEの楽しみ方も完璧。
ずいぶんのちに、彼女の姿の記憶は私の重要なインスピレーションの基となってくれた。まことに鮮やかな人で、今でも忘れられない。