今日の心模様…概ね暖かく安定した天気となるでしょう。山間部ではにわか雨が降るかもしれません…ていう「空模様」みたいなもの?
心の模様、気持ちの綾、気分の良し悪し、心模様と言うと「感情の領域の状態」とも言えるかな。
眠りから覚めたとき、大抵は気分とか感情の波などは無い。何かについて考え始めると気分にいろいろと波やトーンが出始める。波立ち消えて、また新たに現れる。今日の心模様は予測が難しい。自分次第ではあるけれども。
たとえ間違いだったとしても
どんな世界を見ているのかは、人それぞれで皆違う。「どんな風に見えているの?」と、あらためて尋ねてみたりすると、新しい「見え方」の間口になることもあるかもしれない。
「正しいも間違っているも無い」というものも、たくさんある。寧ろ、あらゆるレベル・あらゆるカテゴリ・あらゆる領域において、そうであるものの方が多いんじゃないだろうか…? 状況や経緯や前提によって「適切さ」は違うから、なおさらだ。
ただ、「侵害」だけは、間違っている。
誰かの尊厳を殺すこと、誰かの心の中の大切なものを殺させること、誰かの幸せの状態を侵略的に殺すこと、そして、そういった行為によって傷つき壊れる誰かがいる事実すら顧みないこと。つまり、“自分さえ良ければ他の奴なんかどうでもいい。そこまで考えろ? 知るか面倒臭い。使えるものを使って何が悪い”…というような考えをもとに展開される「愛の無い行動・行為」だ。
ここに「たとえ間違いだったとしても」などという気づきじみた感覚があって、それでもなお明らかに望む何かがあるなら、ひとの痛みへの認知があるぶんまだマシだ。マシだからってやって良いわけないけど。
こう考えるから、私は「精神が何かに酔っていて、それ故に多くの人や命を侵害する“盲目の愚か”が為すこと」には大いに警戒する。人間だから間違うことも当然ある。私も間違う。でも侵害だけは、どこにも正しさ・適切さが無い。
水の雫が落下するさまをハイスピードカメラで記録した映像は面白い。美しく丸い水の球が水面に落ちると、衝撃の入った深さのぶん水面に水が戻り、振り子が落ち着くように水の行き来が落ち着いてゆく。雫がまん丸なのは、集まった水が水の集合の中心へ引きつけられるからなんだそうだ。
「雫」の字はいつ頃できたんだろう? 雨降るさまを表した文字らしいのだけど、「雫」の意味として「中心へ集まる」というのもあるらしい。雨粒の落下速度って速いはずなのに、水の雫の性質も知ってたのかな…?
液体でまん丸、凍って六花、気体でH2Oグリッド。
ところで、神道で「みすまる」と言うとまん丸の球だ。命はまん丸。人類全体の動きは流れを持っているみたいに振る舞う。水みたいだ。一人(一滴)はまん丸、個人が花咲いて六花、シンプルな個は目に見えないグリッド…
一人ひとりは大河の一滴みたいだ。けど、六花に二つと同じものが無いように、誰ひとり同じじゃない。でも共通性は多く持っている。落下した雫が周りの水の動きを引き出すように、人間も相互に作用し合う。明るく開放的で朗らかな、楽しくて幸せな「響き・雰囲気・振る舞い」は、澄みきった「良き一滴」そのものだ。
一滴の雫のような「人ひとり」は、やがて大きなうねりの海をも呼ぶ「作用力」を発振できる。無力なんかではないのだ。本当に。
何もいらない、と。
さて、強欲な私には難しいお題だ。
そもそも「何も」とは?
物理的なもの?
心理的なもの?
社会的なもの?
目に見えるもの?
目に見えないもの?
生活するには、「何もいらない」などということは絶対にない。まず生活費が要る。家族にかかる各費用も賄う必要もある。
生きものだから、食べ物や水が要る。空気も要る。雨風しのげるすみか、服だって無いと困る。あ、太陽の光もないと、病気になりそうだから必要だ。
人間だから、生きてゆくモチベーションも必要だ。
要るものいっぱいあるな…
でも、死ぬときには生涯をともにしてきた身体さえ置いてゆく。清々と身軽に旅立ちたいものだが、これは「何もいらない」という感覚かと言うと、少し違う気もする。子ども達や愛する人の幸いを(そうあって「ほしい」と)願うことは手放さないだろうし、自分の往く歩みが豊かであることへの希望も手放さずに、死の敷居を越えるだろう。
命を削ぎ落とすことは不可能だ。
大切な人達が幸せであることが「ほしい」
許されるなら、魂に抱いて往ける愛が「ほしい」
…やっぱり「何もいらない」が思い浮かばない。私のような強欲者に、こんなお題はまったくダメだ。
もしも未来を見られるなら…
「未来」は、明るい希望というイメージに結びつけられ安い。さて、「未来」が問答無用で確定的に“明るい希望”の塊で、ただボーっと待って居ればそれを享受できるものであるなら、誰も苦労しない。敢えて水を差してみよう…
みんな「今」生きてる。
未来に生きると地に足がつかない。
未来の速さはなかなかのものだ。こればかりに気を取られると、「今」の着々としたペースに飽いてしまいがちになる。でも、勝負どころは「今」にしか無い。着々と「今」に足を置いて進む人を「地味だ」とか「ぱっとしない」とか指さしながら、へろへろと漂うばかりの者が、自分自身をしっかりと育て上げたのを見たことは無い。誰も皆、自分のパワーを直接に作用させることのできるポイントとして「今」しか持ち合わせていない。この点では、まったく平等と言えるだろう。死なない者がいないのと同じくらい、皆同じだ。
ここで「残り時間ッ…!」と考えずにはいられない面々もおありだろう。私もそうだ。
「未来」を如何したいか、方向を定めるのも「今」することのひとつだ。目指す「未来」にするために、何をするのが必要かを見つけるのも「今」することだ。そして、「望む未来」のための“実行”も、「今」することだ。“「今」を通らなければ「未来」を創れない”、なんて、余りにも理屈が当たり前すぎてサラッと聞き流しがちになるが、過ぎた「過去」は触れないし、まだ来ない「未来」も触れない。私達ががっつり「触れる(作用できる)」のは、「今」だけだ。
「未来」は狙う的。矢を放つのは「今」。
自分自身の人生を、「お客さん根性」で“取りこぼす”なんて、あまりにももったいない。
的を射ろ、「今ここ」から。