夢見る心が頭を過るも忙しすぎて時間切れ。桜散る、が今日のお題と来たが、まだこの街では咲いてない。
そういえば、私は「花が終わって葉桜になってきた」とか、「すっかり葉桜だ」とは言うけど、「桜が散った」とは言わないな…。花が終わればつまらぬなどとは感じない。桜が花咲く支度は、前年秋から始まる。冬芽で冬を越え、気温累計が一定まで達すると、狂いなくその時点で咲く。「季節外れに狂い咲き」などという表現があるが、その前のタイミングでストンと冷え込んだ期間が必ずある。それからの気温累計が開花条件を満たしただけだ。
私のすみかの裏に、桜の木と松の木があった。松は年中緑絶えないが、桜は季節の巡りで皆さん御存知の移り変わりがある。花が咲くのも楽しいが、この桜は散り方もすてきだった。私は2階に住むが、窓の外を流れる緩やかな風に、桜の花びらも流れて来る。なんともほほえましい、柔らかな楽しみだった。
松も桜も、お隣の敷地にあった。桜の木にウロができ、倒れたら恐いからと、お隣のおばあちゃんが業者に依頼して伐ってもらっていた。残念だが仕方ない。目蓋の裏に、流れる春を仕舞っておく。
ダークブラウンのアーガイルカーディガンにスラックス、しれっと柱横に立つ人。無表情だが平和な雰囲気。しれっと出るのは久しぶりだ。前は暗い色の服で箪笥の前に座っていたけど。伝えたい、「平和で清明なオーラが滲み出てますよ、よきかな」と。
私がかなりシビアな苦境にあると、しれっと出て、すぐ消えるが、何か「よきもの」を響かせるのか、状況が少し良くなる。座敷童みたいな作用だけど「わらし」じゃない。すごいな、と思うのは、問題の中核になるものを正確に、一瞬でフォーカスしてしまうことだ。…座敷童おじさん、小さくて大きな突破口が開いたかもしれません。本当に、ありがとう。
さて、たぶんこれ、「届かぬ想い」じゃないんだろうなと思う。座敷童おじさんは喋らない。だから私も非言語的コミュニケーション(telepathy的な)が基本だが、……あれ? 「届かぬ」…お題……まあ、こんな時もあるさ。
2024年4月16日 午前
小さな子ども達が神様に宛てて書く手紙は純心で、時々心が痛い。もっともで素直な祈りや「どうして?」が、たくさん見受けられる。
神、という概念には、人それぞれの考え方があるものだろう。それはそれで良いと思う。私などは仏教と神道がわかりやすく感じる。生活の中にいつもあるからだ。仏教は「神」という概念は無い。「仏性」を顕すため「解け」て迷いから「脱する」ための叡智が説かれる。神道は端から「青人草」も「ミコト(命)」と観じ、存在の本質に翳を見ない。
父はキリスト者だった。が、教えと当時の教会組織のありようの乖離に納得できず、離れた。今でも聖書は読んでいるようだ。環境のせいもあって、私も小学生のときから聖書を読むことがちょいちょいとあった。関心引かれてやまないのは創世記だ。
聖書の中に「原罪」という文言は無い。
あくまでも個人的見解だが、私は、アダムとイブはエデンを追い出されたのではなく、自分たちで出たのだと思う。創世記は「世界と個人の意識展開」が、一点を基に始まる幾何学レベルから述べられているように見えるからだ。世界じゅうで、神話に類するものの多くは例えで語られている。
さて、「神」の概念に纏わる、人間の矛盾した思考・行動はたくさんあるように思える。神が全知全能なら、“失敗作”など創らない。世界を歪に創ったりしないし、人間を愚かに創らない。創世記の神は、創造を確認して「すべてよし」と言ったのだ。神が創った完全ならば、絶対。…なんでしょ? なのにどうして…と、神様に手紙を書く子ども達と同じ疑問が出る。
創世記によれば、神はアダムに自分自身と同じ能力を与えた。アダムの肋骨から分けられたイブもしかり。それは「自分の世界を展開する能力」だ。創世記で神もやっている。どんな世界を自分の周りに展開するも自由、ジャッジなし。神は「アダムの世界」を裁かないから。ただ、問題がある。すでに完全である「エデン」には、アダムの「独自性」を展開する余地がない。さあ、イブと一緒にエデンを出よう…親たる神に与えられた「自己」を展開するために。親からは「完全」を持たされているから、旅の備えは万全だ。それはエデンへ帰還するための導にもなる。アダムがどんな「夢見」を展開しようと、あるいは「夢見の展開」以外を見失おうと、“親の持たせた完全”が損なわれることは無いのだから。恐れず、旅路をゆけ。
聖書も、仏教も、日本神道も、「創造の根元」としてもっている根底理念は同じだと思う。個々の創造は自由だから、「夢見」に闇を顕したりもする。闇のなかでは痛かったり悲しかったりする…
うーん、文字をたくさん使っても、子ども達の「どうして?」にわかりやすく表現できない。
やきもきするぜっ。
快晴の眩しさには、大抵コテンパンにやられる。眼の疲れから頭痛になり、肩も凝ってきたりする。
昔、ホームセンターで買い物していて目に入ったサングラスを買った。「日本競歩協会推奨」などというシールが付いていた、スポーツタイプのものだ。紫外線アルファもベータも99%カットなんてシールも付いてた。これでだいぶ楽に過ごせるだろうか…と思いながら、眩しい快晴の日に、そのサングラスをかけて外を歩き、まだまだ元気だった祖父母の家に用事で行った。
「あらあらあらあらあらあら…」
サングラスをかけていた私を見た祖父母の第一声である。…かなり堪えた。…えっ、どんな形のサングラスなのかって? スポーツタイプだってば。顔の形に沿う曲線フレームに、外側から目が全く見えないミラーグラス(樹脂製)で、目に光が入らないようにフルカバーするフレームの形から、横に長い印象の全体像になる。
とりあえず、私がそのサングラスをかけると、「あらあらあらあらあらあら」なんて言われちゃう印象らしい。「そんなに変かな」と聞いてみても、「あらー…」だけ。気になってしまって、きょうだいにもサングラスをかけて「これどう思う?」と聞いてみた。曰く、「お前それはやめとけ。だいたい何処で買ったんだそんなの」ときた。私は静かに答えた。「お前の店だ」と。
結局、どう見えるのか明確なコメントは誰からも得られなかった。ただただ、「うわー…」という雰囲気だけ。快晴の日の、「うわー…」「あらあらあらあらあらあら…」
ほんっと、どう見えてるんだ?
遠く遠い。近く近い。遠くて近い、近くて遠い。
空より上は、いろいろ薄い…ごみの多い昨今らしいが。
自分の中に「こんな反応・考えもあるのか」と知った昨日、パズルのピースのいくつかがはまるように腑に落ちることに黙る今日。
人間らしいのは人間だからだろう。
空が遠いとは思わないが、鎖をぶっちぎりたい。