小さな子ども達が神様に宛てて書く手紙は純心で、時々心が痛い。もっともで素直な祈りや「どうして?」が、たくさん見受けられる。
神、という概念には、人それぞれの考え方があるものだろう。それはそれで良いと思う。私などは仏教と神道がわかりやすく感じる。生活の中にいつもあるからだ。仏教は「神」という概念は無い。「仏性」を顕すため「解け」て迷いから「脱する」ための叡智が説かれる。神道は端から「青人草」も「ミコト(命)」と観じ、存在の本質に翳を見ない。
父はキリスト者だった。が、教えと当時の教会組織のありようの乖離に納得できず、離れた。今でも聖書は読んでいるようだ。環境のせいもあって、私も小学生のときから聖書を読むことがちょいちょいとあった。関心引かれてやまないのは創世記だ。
聖書の中に「原罪」という文言は無い。
あくまでも個人的見解だが、私は、アダムとイブはエデンを追い出されたのではなく、自分たちで出たのだと思う。創世記は「世界と個人の意識展開」が、一点を基に始まる幾何学レベルから述べられているように見えるからだ。世界じゅうで、神話に類するものの多くは例えで語られている。
さて、「神」の概念に纏わる、人間の矛盾した思考・行動はたくさんあるように思える。神が全知全能なら、“失敗作”など創らない。世界を歪に創ったりしないし、人間を愚かに創らない。創世記の神は、創造を確認して「すべてよし」と言ったのだ。神が創った完全ならば、絶対。…なんでしょ? なのにどうして…と、神様に手紙を書く子ども達と同じ疑問が出る。
創世記によれば、神はアダムに自分自身と同じ能力を与えた。アダムの肋骨から分けられたイブもしかり。それは「自分の世界を展開する能力」だ。創世記で神もやっている。どんな世界を自分の周りに展開するも自由、ジャッジなし。神は「アダムの世界」を裁かないから。ただ、問題がある。すでに完全である「エデン」には、アダムの「独自性」を展開する余地がない。さあ、イブと一緒にエデンを出よう…親たる神に与えられた「自己」を展開するために。親からは「完全」を持たされているから、旅の備えは万全だ。それはエデンへ帰還するための導にもなる。アダムがどんな「夢見」を展開しようと、あるいは「夢見の展開」以外を見失おうと、“親の持たせた完全”が損なわれることは無いのだから。恐れず、旅路をゆけ。
聖書も、仏教も、日本神道も、「創造の根元」としてもっている根底理念は同じだと思う。個々の創造は自由だから、「夢見」に闇を顕したりもする。闇のなかでは痛かったり悲しかったりする…
うーん、文字をたくさん使っても、子ども達の「どうして?」にわかりやすく表現できない。
やきもきするぜっ。
4/15/2024, 2:34:26 AM