郡司

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4/5/2024, 12:22:22 PM

今という時代の星空は、新しさや優しさ、夢見るこころの友なのだな、と思う。

時代により、文化により、人々は星空にいろいろに反応してきた。日本で陰陽師が「公務員」だった頃、星空は「気運」や「事件」のマップのように見られていたらしい。その源流は中国だったろうか。メソポタミアでは暦のスケール、ギリシア神話には星座の由来がたくさん語られている。近世の産業革命前までの大航海時代には自分の船の居る地点を測るしるべだった…まあ、カティサークみたいに足の速い船だと、計測回数は少なかったかもだが。

しかしいつの時代にも、「星空オタク」とも言うべき人々は居た。それはメソポタミアだろうが江戸だろうが現代だろうが変わらない。観測を地道に続け、いろんな可能性を考えて、生涯にわたって情熱を注ぎ喜びにきらめく人々だ。星空に魅入られている。

星、宇宙、太陽系、地球、天文学、占星学、星空が手を引いてくれる世界観は多種多様だ。星空ばかり撮影している写真家もある。子どもの描く星空の絵もきらきらしい。古い時代の天球儀とか見ると不思議にわくわくする。

GPSが「現在地の座標値」をズバリで出すのは便利だけど、道具以上でも以下でもないものだ。星を測って安心したりあるいは青ざめたりしていたいろいろな時代、生活の中に不思議があって好奇心や探究心もにょきにょきと、生き生きとしていたのだろう…と、とりとめなく思う。

4/4/2024, 5:17:00 PM

うちの子供らは、どうも完璧主義傾向のようだ。
私から見ても「あらすごい」と本気で思うようなものごとを顕すことが多いのだが、本人達は満足していないときが多い…。上の子など納得せず首を捻っていたりする。目標イメージの姿・かたち・結果に追いつこうとしているのは甚だ素晴らしいのだが、「自分的に今一歩」と感じるときに、「ダメだ」と結論するのはもったいない感じがする。

すぐには届かないから何度もやってみる。そうするうちに、1回のチャレンジだけじゃ知り得ないことや掴み得ないことを獲得してゆく。松尾芭蕉が応援する蛙も、何度もチャレンジしていたようだ。

半世紀生きるうちに実感したことは多くないのだが、確かだと思えるものは幾つかある。そのうちのひとつは「人生はコケて立ち上がってなんぼ」というやつだ。

「コケずに」エリート街道に入った人も一時の職場に居たのだが、精神的な柔軟性や強靱さといった面で、見ている周りが心配してしまうことが多かった。アクシデントやトラブル、思いがけない展開の無い人生は、たぶん無い。子どものうちに、若いうちに、適切にコケると、「立ち上がれる自分」に気づく。その一つひとつが全て、自分自身への信頼になるのだ。「やだなぁ」と逃げるのも状況によって「有り」だろう。何らかの流れで、自分のなかの「やればできる子」が目を覚ますなら、それは紛れもない「生きるちから」だ。

年取ってから「コケる」のは、けっこうキツい。若い頃よりも、複雑化してくる状況がどうしても多いから、立ち上がるために必要な馬力はデカい。まあ、私も経験している。はっはっは…

でも、それでも、それでいいのだ。
どんな「コケっぷり」をしても、出来事の中に自分の資質を開くための縁を信じて、立ち上がるために淡々と、まっすぐ見据える。次のステップは手の届くところにちゃんとある。

4/4/2024, 7:55:05 AM

重く澱む「観」が明るさを遮って存在を主張する只中をメインフィールドとする者モノと渡り合うのも丸3年を過ぎ、彼らの「観」が自分のフィールドへ侵蝕することと闘い続けるにも疲労感のある今日このごろ。

…というような感覚は、ある種の職業界隈(例えば精神科医やカウンセラー)の方々にはお馴染みかもしれない。ホントお疲れ様である。しかし上記の状態は私自身の現況でもある。私はメンタルヘルスのプロなんかではないし、そのような現場で働く気もない。「絶望なんてそのへんにいくらでも転がっているから」と、若いシンガーソングライターの女の子が言ってた記憶があるけど、その視点で「観れば」、確かにそのような風景もある。

平たく言って私はこの澱みの放つ響きを捨てたい。もしくは全く同調しない波長域に自分の認識焦点を在らしめたい。なんだか帰巣本能のはたらきがポンコツになってしまって困る犬みたいだ。「おうち」へ帰りたいよぅ。

道しるべを何か、と思い巡らすと、一つだけしか思い浮かばない。木だ。木、木……白樺、カラマツ、ミズナラ、クルミ、ネコヤナギ、エゾマツ、桜……うん、ひとつだけじゃなくなった。キイチゴ、オオバコ、ミヤマエンレイソウ、ヤマユリ、エゾエンゴサク、芝桜……どんどん出てくる、「ホームポジション」の者モノが。澄んだ水、午前の陽光、安心している自分。よし、帰って来た。ここからちゃんと、手ぶらでGOだ。

4/3/2024, 6:05:32 AM

はた、と立ち止まるペンギンが、たまにいる。南極にも居るようだし、動物園のお散歩でも、たまにいる。歩いているさなかに立ち止まって、しばし。

動物園のペンギン担当が、立ち止まるペンギンのことをミニコラムに書いていたところによると、まるで「歩いている自分に突然に気づいたように立ち止まる」そうだ。さあ行くよ、と促しても、おいでおいでと呼んでも、後ろから押してみても、頑として動かない。他のペンギン達はどんどん進んでゆく。最終的には、ペンギン担当が抱えて走るしか無い時も少なくないらしい。

昔まだ上の子が小さかった頃に、私もはた、と立ち止まった。そしてそのとき就いていた仕事を辞めた。子どもに不自由させないために仕事をしていたはずなのに、いつの間にか仕事のために暮らしがすり減ってゆき、子どもと手を繋いでいるけど子どもがどんな表情をしているか振り返って見る気持ちのゆとりも失せていることに、突然気づいたからだ。

子どもと仕事、天秤にのせるまでもなく、私にとって大切なものは子どもの心だ。はっきり言って、会社は私や私の子どものことなんか顧みない。業務をこなし会社利益を掻き集めるコマのひとつ以上でも以下でもなく、代わりはいくらでも居る。

私は「スーツを捨てた」。
幼児を抱っこしていてどんどんと迫り来る「社会生活の要求(つまり金がないと暮らせないという脅迫観念)」を必死で各個撃破していたのをやめて、幼児を自分の背にくくりつけて「野に出る」方向に転換したのだ。

迫り来る「社会要求」をクリアする、という方向性では、私も子どもも「無情で無責任な得体の知れないご都合主義」に閉じ込められてしまう。このままでは窒息してしまうのは必定だ。私は「生きものとしてつつがなく暮らすために、社会システムの幾つかを使う」ことにした。状況の被害者でいることをやめた。茂る木の葉一枚にすら「生きるスペース」はある。なら私にそれが無いわけがない…

一足飛びにすべてが変わったわけではない。一歩ずつ、ひとつずつ、変わるべくして変わった。窒息しそうだと感じることはなくなった。きっかけになった「大切なもの」は子どもの存在だったが、それからの流れはあらゆるレベルにわたっている。

ペンギンが「立ち止まる」のも、ペンギンなりの必要があるのだろう。ちなみに、コウテイペンギンだ。

4/1/2024, 4:15:47 PM

そういえば四月朔日はエイプリルフールだった。

「嘘つきのパラドックス」は有名…だよね…?
攻殻機動隊のタチコマが言ったシーンも思い出す。

自己言及のパラドックスと言われ、「自分は嘘つきだ」と自己について言えば、それは結局、嘘つきか、そうでなく正直者なのか答えが出ない…というやつだ。

「自分は嘘つきだ」は自己申告だから、その言葉どおりに嘘を言うなら正直者ってこと?…となり、じゃあ「自分は嘘つきだ」が「正直者の言う真実」なら、嘘を言ってないことになり、そも嘘つきじゃないことになるから「自己申告の内容」は嘘だということになり、堂々めぐりになる。こう、書いてみると本当に小さく限定した範囲の理屈だ。

さて、「嘘つきのパラドックス」には「文脈・背景という前提」が無い。すると、問題の焦点がずれる。

実際のところ、全体状況という背景や文脈があるときにだけ、「嘘」は成立する。「嘘」と覚しきものが「そこ」にある状況であるならば、必ず何か「嘘をかぶせる対象事象」がある。しかも、嘘かどうかを検証する必要が生じるとき、真偽解明フォースが目指すところは「対象事象に対する情報は嘘か真か」であって「情報の伝達者は嘘つきか正直者か」は二の次だ。

文脈も背景も切り離してしまって本来なら成立しない「嘘つき」を、幻術よろしく“「命題」に据えること”自体が既に矛盾している、と思うのだ。立てる式に矛盾があるなら答えも出ないのはフツー、じゃないのかな…?

人間は自分の目玉で自分を直接見ることはできない。でも自分の行動は自分でする。「嘘つきのパラドックス」は自分による直接行動ではなく、「自分ではない他者に、他者では確定し得ない自分領域を、確定しろとけしかける」。

エイプリルフールのネタが面白いのはりっぱに「前提・背景」があるからだ。だからこそ、ちゃんと「嘘」が成立して、皆をニヤリとさせる。

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