郡司

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はた、と立ち止まるペンギンが、たまにいる。南極にも居るようだし、動物園のお散歩でも、たまにいる。歩いているさなかに立ち止まって、しばし。

動物園のペンギン担当が、立ち止まるペンギンのことをミニコラムに書いていたところによると、まるで「歩いている自分に突然に気づいたように立ち止まる」そうだ。さあ行くよ、と促しても、おいでおいでと呼んでも、後ろから押してみても、頑として動かない。他のペンギン達はどんどん進んでゆく。最終的には、ペンギン担当が抱えて走るしか無い時も少なくないらしい。

昔まだ上の子が小さかった頃に、私もはた、と立ち止まった。そしてそのとき就いていた仕事を辞めた。子どもに不自由させないために仕事をしていたはずなのに、いつの間にか仕事のために暮らしがすり減ってゆき、子どもと手を繋いでいるけど子どもがどんな表情をしているか振り返って見る気持ちのゆとりも失せていることに、突然気づいたからだ。

子どもと仕事、天秤にのせるまでもなく、私にとって大切なものは子どもの心だ。はっきり言って、会社は私や私の子どものことなんか顧みない。業務をこなし会社利益を掻き集めるコマのひとつ以上でも以下でもなく、代わりはいくらでも居る。

私は「スーツを捨てた」。
幼児を抱っこしていてどんどんと迫り来る「社会生活の要求(つまり金がないと暮らせないという脅迫観念)」を必死で各個撃破していたのをやめて、幼児を自分の背にくくりつけて「野に出る」方向に転換したのだ。

迫り来る「社会要求」をクリアする、という方向性では、私も子どもも「無情で無責任な得体の知れないご都合主義」に閉じ込められてしまう。このままでは窒息してしまうのは必定だ。私は「生きものとしてつつがなく暮らすために、社会システムの幾つかを使う」ことにした。状況の被害者でいることをやめた。茂る木の葉一枚にすら「生きるスペース」はある。なら私にそれが無いわけがない…

一足飛びにすべてが変わったわけではない。一歩ずつ、ひとつずつ、変わるべくして変わった。窒息しそうだと感じることはなくなった。きっかけになった「大切なもの」は子どもの存在だったが、それからの流れはあらゆるレベルにわたっている。

ペンギンが「立ち止まる」のも、ペンギンなりの必要があるのだろう。ちなみに、コウテイペンギンだ。

4/3/2024, 6:05:32 AM