郡司

Open App

そういえば四月朔日はエイプリルフールだった。

「嘘つきのパラドックス」は有名…だよね…?
攻殻機動隊のタチコマが言ったシーンも思い出す。

自己言及のパラドックスと言われ、「自分は嘘つきだ」と自己について言えば、それは結局、嘘つきか、そうでなく正直者なのか答えが出ない…というやつだ。

「自分は嘘つきだ」は自己申告だから、その言葉どおりに嘘を言うなら正直者ってこと?…となり、じゃあ「自分は嘘つきだ」が「正直者の言う真実」なら、嘘を言ってないことになり、そも嘘つきじゃないことになるから「自己申告の内容」は嘘だということになり、堂々めぐりになる。こう、書いてみると本当に小さく限定した範囲の理屈だ。

さて、「嘘つきのパラドックス」には「文脈・背景という前提」が無い。すると、問題の焦点がずれる。

実際のところ、全体状況という背景や文脈があるときにだけ、「嘘」は成立する。「嘘」と覚しきものが「そこ」にある状況であるならば、必ず何か「嘘をかぶせる対象事象」がある。しかも、嘘かどうかを検証する必要が生じるとき、真偽解明フォースが目指すところは「対象事象に対する情報は嘘か真か」であって「情報の伝達者は嘘つきか正直者か」は二の次だ。

文脈も背景も切り離してしまって本来なら成立しない「嘘つき」を、幻術よろしく“「命題」に据えること”自体が既に矛盾している、と思うのだ。立てる式に矛盾があるなら答えも出ないのはフツー、じゃないのかな…?

人間は自分の目玉で自分を直接見ることはできない。でも自分の行動は自分でする。「嘘つきのパラドックス」は自分による直接行動ではなく、「自分ではない他者に、他者では確定し得ない自分領域を、確定しろとけしかける」。

エイプリルフールのネタが面白いのはりっぱに「前提・背景」があるからだ。だからこそ、ちゃんと「嘘」が成立して、皆をニヤリとさせる。

4/1/2024, 4:15:47 PM