郡司

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3/22/2024, 10:57:10 PM

私は子ども達から見て、「バカみたいなことをやる母」のようだ。上の子には“変態”と言われ、下の子には“ポンコツ認定”されている。

自分でも“バカみたいだな”と思う。しかし、これは必要なことなのだ。

上の子と話すとき、わざと中二病ぽく話す。その方が、「言葉が届く」ことが多いからだ。半世紀を生きてるおばさんが中二病的な言葉回しをするなんて、バカみたいにもほどがある。でも、少しでも「言葉が届く」なら、安いものだ。

下の子が宿題を面倒くさがって計算を頼んでくるとき、計算を間違う。あらー、おかしいな? もう一回やってみよう……えーと、までいくと、「もういいよ。自分でやる。ママってポンコツだなぁ」と来る。よしよし、自分で考えてこその宿題だ。

バカみたいに、毒のない「はずし」や「ズレ」をふりかけて、大事なことを笑いのうちに埋め込んでおく。そのタネの芽吹きが必要になったとき、大まじめな真剣さをそれらが助けてくれれば、しめたものだ。

うちの子ども達には合っているらしい。それが役に立つなら、いくらでもバカやるぜ。

3/22/2024, 12:48:58 AM

ふたりぼっち、と聞くといつか流行った歌を思い出す。当時もよくわからなかったけれど、今もよく考えてみないと、いまいちピンと来ない。

語源を「ひとりぼっち」で探してみたら、「独り法師」なのだそうだ。どの宗派にも属さず或いは離脱して、ひとりでいる僧侶。これだけ見るぶんには現代で言う「ひとりぼっち」の寂寥感や孤独感は薄い気もする。そういえば、以前はたまに、街の中に虚無僧が歩いているのを見かけた。あれは修業のひとつだそうだ。

「ふたりぼっち」で単純に浮かぶ印象は……うーん、寂しいものだ。夕暮れのなかにこどもふたり、寄る辺も心細いような不安感。ただの迷子ならおうちへ帰るためのつなぎをしてあげれば解決だが、それも大丈夫なのか心配になってしまう昨今…というような、なんだかモヤモヤしてしまう感じ。ふたりぼっち反対。

昔、実家の向かい側のアパートには、お母さんと小さなきょうだいが暮らしていた。お仕事か所用か、夜に出かけている日も多かったようで、何度か下の子が暗い中お母さんを探しに外へ出て、上の子が追って来て連れ帰ることがあった。一度だけ、強い雨降りの夜遅くに、下の子が傘も持たず靴も履かず(本当に小さな幼児だったからだろう)、道に出ていた。それを見つけたうちの母が大判バスタオルでその子を包み、抱っこしながら家の外で子どもたちのお母さんが帰って来るのを待った。ほどなくお母さんが帰って来て、頭を下げ下げ、子どもたちと家に戻って行った。念のため言い添えるが、このお母さんは子どもたちに優しい、常識的でコミュ力のある人である。

とにかく、小さな人たちの「ふたりぼっち」は、見ていて不安感がある。心配感を通り越して不安感なのだ。

3/20/2024, 11:10:58 AM

夢が醒めるか夢に醒めるか、多分、どう転がっても「遅きに失する」ことはない。

自分自身では復活したつもりが作業は続き、思いがけないなりゆきの中。

紙にペンだと進まない文言もデジタルならすんなり書けるのは、ネットが「浮動的な場」だからなのかな、と思う。密度を押しのけて物理に現すのとは、ちょっと違うようだ。

ここ数日の私の書く内容は、たぶん「何言ってるのかわからん」ものだ。それでいい。自分のための書き物だ。私がわかっているならミッションコンプリート。

虚空(VOID)に居た。夢のような風体で夢じゃない。
この現実にも居た。どちらも同じだけ「現実」で「夢」なのは間違いない。

夢が醒め、夢に醒めた。



























備忘録 虚空の一点は自分 点から球 球の表面(円周)から直径同じ球 繰り返し 平面模式フラワーオブライフを立体構成無限連続拡張 宇宙のすべてまで 自分の在る次元のすべてまで すべての自分を呼び集めすべての自分とつながりすべての高さの自分をひとつに あらゆる次元に自分という存在の奔流が満ちすべてにわたる 橋渡す人間 グリッドの質の高次化 終わり無さの顕現 なお当たり前に人間であり続ける

3/19/2024, 10:46:31 AM

胸が高鳴る何かを探しにどこかへ
ベタ凪の静寂に座ったまま、風景を切り拓く

「あなたが死を迎えるとき、じゅうぶんに生きているように気をつけなさい」
「あなたはそのために死ぬ覚悟がある。しかしそのために生きる準備はできていない」
「衝動を大切になさい。自分自身でいるために」

迷いながら、時々ある種の死を通り抜けながら
静かに探す

3/18/2024, 1:32:58 PM

復活。霧は晴れた。私にとっては些細な枝分かれであることを見つけた。目標地点を間違えないように軌道修正的流れを都度、浸透させる努力にぶれることは無い。「不条理」にまみれ、自分自身も「不条理」で、そのように見える顕れの奥には「揺るがぬもの」しか無い。なんのことはない、立ち返ったのだ。自分の基本であるものへ。私は私の尊厳にしたがって自分自身を定義する。“汝が苦しみの炎の中にあるとき、自身は樫の木か白金かを問え”、と来れば、答えは白金だ、決まっている。

さて、奇しくもお題は「不条理」。しかし、ならば「道理」とは。「道理」と称するものが、ただの「旧(ふる)き観」にして「本質を見る透徹の不在」であるならば、「道理」というものは「集団で創っている現実に関する参考」程度のものでしかない気がする。

私が心底面白く感じた仏教経典は、『涅槃経』と『唯摩経』だ。不条理満載で希望が満載。

新しきへ入るには旧きを手放す必要がある。それは大抵、ゆっくりと移行していける流れとして生まれる。今日の不条理が明日は道理であることも、人間は繰り返してきた。不条理も道理も、ひとえに人間の「観」が決めているものだからだ。

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