郡司

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復活。霧は晴れた。私にとっては些細な枝分かれであることを見つけた。目標地点を間違えないように軌道修正的流れを都度、浸透させる努力にぶれることは無い。「不条理」にまみれ、自分自身も「不条理」で、そのように見える顕れの奥には「揺るがぬもの」しか無い。なんのことはない、立ち返ったのだ。自分の基本であるものへ。私は私の尊厳にしたがって自分自身を定義する。“汝が苦しみの炎の中にあるとき、自身は樫の木か白金かを問え”、と来れば、答えは白金だ、決まっている。

さて、奇しくもお題は「不条理」。しかし、ならば「道理」とは。「道理」と称するものが、ただの「旧(ふる)き観」にして「本質を見る透徹の不在」であるならば、「道理」というものは「集団で創っている現実に関する参考」程度のものでしかない気がする。

私が心底面白く感じた仏教経典は、『涅槃経』と『唯摩経』だ。不条理満載で希望が満載。

新しきへ入るには旧きを手放す必要がある。それは大抵、ゆっくりと移行していける流れとして生まれる。今日の不条理が明日は道理であることも、人間は繰り返してきた。不条理も道理も、ひとえに人間の「観」が決めているものだからだ。

3/18/2024, 1:32:58 PM