郡司

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2/28/2024, 1:07:57 PM

遠くの街へ……これまでに訪れたことのある、いちばん遠い街を思い出してみる。

伊勢だ。伊勢神宮。街じゃないけどまあ良い。

当時の私はまだ就学前の年齢だったが、伊勢の記憶は鮮やかに残っている部分が多い。最も鮮明で、かつ大好きな記憶は、五十鈴川である。

だいたい私は、たいていの場所の水が怖かった。長じてみると、何故「怖い」と感じていたのかは解るようになったが、幼児のときは、“理由はわからないけどここの水は怖い”ところがほとんどだったから、五十鈴川の「まったく怖くない、あかるく澄みきった水の流れ」には本当に嬉しい新しさを感じたのだ。しかも当時、五十鈴川には錦鯉が放されていて、私は五十鈴川の縁にしゃがみ、水の中を飽きずにのぞき込んでいた…ら、母が何か叫びながらこちらへ走ってきて、あっという間に私の襟首を掴んで川から離してしまった。

私はとても残念な気持ちだったが、今考えると当然だった。常識的に、幼児の体格で川に落ちれば危ないと判断する。…今もって五十鈴川でそんな危険があるとは思えないというのが私自身の本音だけれども…でも、そんな私も自分の子どもが同じことをしていたら、母と同じようにするだろう。

友人が昨年の夏に伊勢詣りに行ってきた。今の五十鈴川には錦鯉は居ないと言っていた。

2/27/2024, 12:58:30 PM

現実逃避か。さて、「どの現実」から逃避?

これまでに長らく、「現実とはコレ。この現実ひとつだけ。あとは妄想か幻妄。くだらないユメ見んのもいいかげんにしなさい、現実は甘くないんだからね」という「観」が引き続いてきた。“現実は全員がもれなく同一に認識し、決して揺るがぬ事実であり真実”…という考えだ。

ところが、量子を扱う科学者達が、こんなことを言い出した。
「なんか実験(観測)する奴が変わると結果(観測される事象展開)も変わるぞ。公正な実験でだ」と。
紛う方なきこの現実でのことだ。

いわゆるところの「現実逃避」は私もよくやっていた。よくやっていたからわかる。逃避しても根本課題がなくならない。それどころかクルシイ時間期間がダラダラと間延びするのだ。私はドMじゃないから、早く楽になりたい。早く楽になるには、課題に取っ組んでクリアするしかない。正面突破だッ!かかって来いやゴルァー!!

もちろん、「今はそれムリ。戦略的撤退するんだもん」という選択が最良のときもある。そんなとき、とりあえず逃げることを実行できたなら「よくやった自分。自分で自分を守ることができたぞ」と、自分を褒めて労るべきだ。それはしばしば、“生きるためにできること”を尽くす行動に他ならないからだ。「百聞一計逃げるに如かず」とかいう文言を何かで見たが、これくらいしたたかでもよきかな、だ。

ところで、「現実逃避(課題の先延ばし)ができる現実という場所」は、どうやら「この現実」だけらしい。近くにある「他の現実」では“問答無用の容赦なし”の傾向があるようにも見える。この現実は「まだ優しいところ」みたいだ。




2/26/2024, 1:07:49 PM

君は今、あなたは今、あの人は今、みんなは今…

私は今、「生死の閾」が無くなった自分の道に居ます。でもちゃんと、みんなと同じであろう「時空間」の中に居るよ、今はね。どこまで進めるか、まだ見えないけど、自分の精いっぱい行けるとこまで、がんばろうと思う。目的地は「行けるとこまで」。自分で「よくがんばったなぁ」って心の底から実感できることも、大事な目標のひとつ。

あなたは今、きっと忙しくしているのでしょう。自分の来し方を振り返れば、あなたを見つけることができたのは、とても大きな僥倖です。私の、前へ進む心を、あなたの存在はいつも励ましてくれています。肉体のあるときも、無いときも、その旅路が最良のものでありますように。私の切なるねがいです。

2/25/2024, 1:19:22 PM

もの憂げな空、ですと?

…さあ、行きますよ。
そんな「シケたツラの空」なんて見たことない。

見える空に気分を投影する表現はたくさんあるし、それ自体は見る人それぞれの感覚の自由だと考える。空を言い表すときにどれほど「修飾」を付けようと、楽しく感じられるならそれが良いと思う。グリーンゲイブルズのアンなら、あらゆるものごとを荘厳に修飾するだろう。

じゃあ自分はそうするかと言うと、しない…。
自分の目でどう見えるか、それによって自分の気持ちはどう、とは表現するけれど、同意は求めない。個人的なものだからだ。

空自体が「もの憂げ」に見えたことが無いんだが、晴れた空をそのまま「晴れやか」だと感じることはたくさんある。子供の頃は晴れた空を見て何故か寂しい気持ちになったりした。自分の気持ちが悲し寂しの夕方に夕陽がほんのり温かくて(赤外線)、更に哀しくなったこともある。ぜんぶ自分自身の心だ。自分の胸の内が、それらの在処だった。

空は空だ。たまに「励ましが降ってくる」けれど、中途半端に「もの憂げ」なところを見たことはない。

2/25/2024, 12:43:48 AM

小さな命、よく聞く言葉だ。テレビや新聞などのメディアがこの表現を赤子に当てはめることを盛んにやっていた時期もあった記憶がある。

私の子ども達が赤子だった頃や乳幼児期、「小さい」と言って間違いない頃を思い出してみる。…うん、小さいのは身体だけだ。その存在は間違いなく大きい。長女が生まれたとき、私は「人生ってやつも悪くないかもしれないな」と、自分が生まれて初めて思ったのだ。

「かたちの小ささ」を「命の小ささ」と同一視すること自体には、良い面も悪い面もあるとは思う。

「かたちが大きい」者は「かたちが小さい」者にとって「物理的圧倒」がある。世間で騒がれる痛ましい出来事の多くに「物理的圧倒」を悪用したケースは実に多い。「かたちが大きい」だけで、「中身は小さい」者達だ。これは「器ってやつが~」という意味ではなく、中身に成熟がない、という意味だ。

「物理的圧倒」があるぶん、「かたちの小さい」者に思いやりを発揮する「かたちの大きい」者も、もちろんたくさんいる。むしろ生物的にはそれが必要だ。多くの人間も、動物達もこれを自然に行動する。

野生動物は小さい生きものを捕食するじゃないか、という声も昔からよく聞く。人間が狼を恐れて絶滅させてしまった北海道の生態系に及んだ影響は、現在も終わってない。

人間にしても、動物にしても、その場限りの感覚で「かわいそうだから」とか、逆に「邪魔だから、怖いから」的な動機のもとに行動してしまうのは、「見誤る」危険がある。命は大きい。決して小さくない。けど、繊細でもある命と命の間を繋ぐには、思いやりという「ぬくもり」が、“最大の力”として必要だ。

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