郡司

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2/24/2024, 3:40:14 AM

Love you…状況で違う意味合いになる表現だ。親愛の気持ちと言えば確かにそうだけど、一緒に居る恋人同士や、家族の中での言葉。その場の状況を前提として巻き込んだ上で発される口語表現だから、文章には向いてないと思われる。

日本人の日本語による同系ニュアンスの表現だと、「大好き」なのかな…? 次女がよく言ってくれる。「ママ、大好きー」と。かなり栄養になってる。長女は…うん、おねえさんになったね…

それにしても、英語だと提示情報量が違う。文化の違いなのだろうけど、日本語と英語では一文に含み示されるものの量が違うのだ。英語の構造はとても物理的な印象だ。

以前にも「大好き、で良いのでは?」みたいなことを書いた。お題の文言に比べてほわっとしている印象があるけれど、親しい間柄ではしっかりと「心の活力源」になるのはウケアイだ。

2/22/2024, 1:19:11 PM

何かを太陽に例えるの?

恒星の太陽。地球に対する作用は、その距離的近さゆえに遠い恒星達とは一線を画するものだ。遠くにある恒星は夜空に小さく光る「お星さま」。

恒星である太陽は莫大なエネルギーを放射している。地球の方は大気やオゾン層という保護エリアが必要なくらいだ。でもその恩恵は言うまでもない。太陽が活動を止めたりしたら生存できる生きものは少ないだろう(クマムシとか?)。

地球で生きてる多くのものにとって太陽は「前提となる生存条件第一位」。これに例えるに相当なもの………うーん、何だろう。大づかみに考えると、「生まれて間もない赤子にとって親もしくは親の如く世話する者」のような。生まれてから1ヶ月の間は特に、ほとんどすべての時間も手間も捧げて世話する誰かが居ないと、赤子は死んでしまう。あるいは、発育上に障りが出る。

今生きている人はすべて、そういう誰かが居たから生きている。「太陽のように、生きることを支えてくれた誰か」が、必ず居る。“憶えてないから知らねぇよ”じゃないぞ。居たんだ。

2/21/2024, 3:08:41 PM

いつの何が、「0からの」だったか、わからない。

けど、長年かかってひとつの「課題」をクリア・解放する度に、私は「0地点」に立った。これは理屈じゃなく感覚的な実感だ。太陽の光が強く輝く大きな風の中、周りの心象風景はいつも「荒野」ばかりなのだが、光の中にも風の中にも希望が浸透しているような荒野。草も生えてない。何故「荒野」なのかはわからない。必要があれば理由を理解する時があるだろう。

心象に顕れる度に荒野の何かが変わっている。最初の荒野より直近の荒野の方が「息ができる」気がする。何と言うか、風も光も生命感が増していて、「深く澄む」ような感じだ。

今日のこれを書き始めてから、直近の「0地点」に入ってみた。印象が鮮やかだから、すぐその荒野に立てる。悪くない場所だ。光をはらんだ風はよけいなものを私から洗い流してゆく。太陽の光は前方から夜明けみたいに射してきて、私に浸透する。今しばらく、ここに居てみよう…

2/20/2024, 1:34:20 PM

同情、というものはしばしば、本来意味する「思いやりをもって寄り添う」のとは全く別物の動機のために「仮面」のように利用される「ふるまい」として現れる。

心が温まり、純然と励ましを受け取れる「同情」は、言葉通りのまっすぐな、優しさの表れたものだと思う。
反対に、侮辱を感じる「同情」もある。
違いはどこで感じるのか、考えたことがある。随分昔のことだ。自分の経験を振り返ると、当時の私の、怒りの反応ときたらまるで瞬間湯沸器のようだった。私はいったい、その「同情」に何を感じたのか。ちょっと言葉回しが古いが、「汝、弱き者よ。憐れみを垂れてやろう」という、「相手の心理的な態度と、相手が自分に対してとろうとしている立ち位置の観」とでも言おうか。

居なくなれ、私を貶める行為に依存しようとする者よ。私は汝の自己価値感の不足を補う部品などではない。絶対に。私の誇りを踏みつけるな。…という怒りだった。

こういう状況のたちの悪いところは、正直言って「しんどい苦境にある」ときに出くわすことだろう。もっとアレな場合、相手の考えのかたちの中に「かわいそうな人は憐れんであげるのが、善い行い」という、「悪意なきテンプレートと思考停止」が鎮座ましましていたりする。まったく悪意が無いから、スルーするしかない。

もしかしたら、こだわり無くそういった「人間関係の偏り」を自分の良いように転じる「達人」も居るのかもしれない。それはそれで才能だ。

でも、私は粗忽者なので「きーっ」となるのだ…

2/19/2024, 12:54:36 PM

枯葉。私の住む街には今はほとんど見当たらない。すべて雪の下だ。秋に地面に落ち、冬の雪の下に埋もれ、雪解けの頃はまだその姿を保っている。春の暖気が来てから、少しずつ分解者によって姿を消してゆく。…山の中ならね。市街地では、雪が来る前にブロアーで集めたり、箒で寄せ集めたりして、姿を消してしまう。アスファルトの上では、いつまで経っても枯葉は分解者に出会えない。

さて、そのような環境の中で育った私は、あまり枯葉の風情がわからない。なので、今向かいつつある春のものを(まだ早いけど)思ってみる。佐保姫だ。

佐保姫が来ると桜が咲く、と、聞いたことがある。秋なら秋津姫、春は佐保姫だと。桜が咲いている間は佐保姫が居るそうだ。日本列島に佐保姫が滞在してだんだんに北へ進むのだと。

日本で最も遅く桜が咲くのは、大雪山の桜だそうだ。平均的に、7月に開花する。3月から7月まで、5ヶ月近くをかけて佐保姫の幸いは日本にあるということになる。そして秋には、北から秋津姫がやって来られるから、桜の葉が枯れるのはいちばん先だ。

しかし正直なところ、私には桜の枯葉もなかなかイメージしにくい。スーパーに行けば、年中「桜餅」が並んでいて、塩漬けの桜の葉が巻いてある。枯れてないどころか、美味しく食べられる。

やっぱり私の街の中では、枯葉の風情はわからない。

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