郡司

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2/18/2024, 1:21:58 PM

今日は祖母の誕生日だ。満年齢98歳、つまり今日から99年目を生き始める。最近の、気温の大きく乱高下する気候には皆疲れているが、祖母も例外ではない。眠り込む時間が増えている。

人間の自我意識領域は、眠りとともに意識の深淵に沈むそうだ。目覚めるとき、昨日とは別の自我が、新しく生まれて「咲く」。昨日の自我から今日の自我へ、「自我領域の仕事」は完璧に引き継がれ、人間は今日の目覚めで自分自身の「現実をハンドリングする自己意識」が「全く新しく生まれた」ことに気づかない。“人間は毎日新しく生まれる”という表現はたまに見かけるが、これは例えじゃなくガチの事実だ。

今日にさよなら、今日の自我ともさよなら。
目覚めておはよう、新しく花が咲くように新しく生まれた今日の自我と協力して「存在が表現する」。

人間は「古びてゆく」暇などない。毎日新しく生まれるのだから。

2/18/2024, 1:08:47 AM

お気に入り

ネイビーのシャツ。普通の形。メンタルが引き締まる。

自分で編んで作ったブレスレット。菫青石と紅玉と、月長石と白い曹灰長石、青い閃晶石に、水色の蛍石も一粒、吊り下げで付けてある。菫青石はもう戦友と言って良い。そして、だいぶ内傷が増えた。

ダイソーで買った猫形抱き枕。三毛猫デザインのポヨポヨだ。最近、中綿が少しずつヘタレ気味。

なんだか、私の「お気に入り」は、消耗してゆくものばかりだな…大事にしよう。

当たり前と言えば当たり前なんだろうけれど、おもに子ども達のものごとに埋もれて過ごしているぶん、「お気に入り」を並べる「スペース」を自分の中にしっかりと持っているわけではないみたいだ。

自分の中のスペース、ちょっと見てみようか…


2/17/2024, 2:41:19 AM

誰よりも? 誰よりも、誰よりも…
むぅん、この比較の言いまわしには、子どもの頃から違和感があった。年取った今の感覚では、「誰よりも」という前段に「~の中では」などと「ローカルな集団の条件を提示」せずに使うことは無い。

実際、人間は個々のありようが違う。比較するならば「どの点に関して」比較するのかを示さなければ、「流れゆきて消える」ケムリのように「根無し草な考え」に終始してしまう感がある。

日本の昔話に、ねずみの娘をどこに嫁に出すかでひと悶着するものがある。誰よりも強いものへ嫁に出そうと、やれ太陽さんだ雨雲さんだ、やっぱり風さんだ、いやいや天気に揺らがぬ蔵さんだと続き、一周回って“やっぱりねずみだ”と落ち着く。

太陽さんは「雲にかかられちゃ照らせない」
雨雲さんは「風に吹かれちゃ居られない」
風さんは「どんなに吹こうが蔵は飛ばせない」
蔵さんは「ねずみに齧られちゃ穴があく」…という流れなんだが、さて、この理屈には抜け落ちてるものがある。
太陽さんが照らし、雨雲さんが雨を降らせ、風さんが太陽さんの光と雨雲さんの雨の巡りを起こさなければ、食べ物は生育できない。蔵を建てて食べ物を集める人間が居ると、ねずみは楽々と食べることができる…結局、生けるものとあらゆるものとが、みんなで「命をつなぐもの」を育て運んでいる。この中には「必要不可欠な者」ばかりで「誰よりも強い者」など、何処にも居ない。
まあ、昔話だから、この物語が語られ始めた頃は、そんな本質は「当然の常識」で、いちいち語る必要もなかったのかもしれない。

人間の社会システムも、この「巡り」が無いとたちまち瓦解する。みんな生きものだから。社会システムに疲れてしまうとき、人間は自然の中へ自分を置いてリフレッシュできたりもする。

この惑星での「総合性」の前では、「誰よりも」は幻想だ。

2/16/2024, 5:37:22 AM

興味深い実験の話を聞いたことがある。ある新年会の席の余興で、「一年後に叶っている自分の希望」を、参加者全員、小さな紙片に書いてもらい、“来年の新年会でまたこの紙をみんなで見てみる”ことにした。さて、一年後の新年会でまた余興としてそれを見たところ、実に八割以上の人が、「紙片のねがい」を叶えていたそうだ。気軽な余興、酒の入った酔っぱらい達が、概ね楽しく気軽に書いたものだ。紙に自分の希望や夢を書き出すこと自体が、「現実への最初の出力」であるのは確かだと思う。

「何かのテーマについて、未来の自分からメッセージを受け取ることができる」と、聞いたこともある。
たぶん、その「自分」は、「時間計測の先にある自分」ではない。正確に表現するなら、「今日の自分と同一自我」ではない。ただ、「存在は同一」だ。「存在」と「自我」は違う。自我は「存在の窓口」だ。

未来の自分であるなら、自我は今より洗練されている可能性が高い。人間は進む。“ぜんぜん進んでないし成長してない。自分の周りの心象風景だって変わらない”と思うかもしれないが、成長は螺旋で上昇するように進む。「またもや同じ風景」に見えても、「高さ」が違う。つまり、「未来の自分」とは、「現在よりも認識の俯瞰性が高い自己意識」とも言えそうだ。

人間は愛する生きものだ。異論は認めない。「愛をもって眺める深さが増している意識領域」が出してくるメッセージなら、力強い信頼性がある。なによりも、自分で自分を真にだますことはできないのだ。

さて、私も「未来の自分からのメッセージ」にアクセスしてみよう…
曰く、「生きる瞬々のどんな部分も、紛う方なき愛を以て抱きしめられるようになる。なに、心配すんな」と。それって10年後か?…
また曰く、「今更年限なんて必要かね」と。確かに。

2/14/2024, 5:01:00 PM

次女が見ていた動画から、「エリーゼのために」の旋律で歌が聞こえてきた。学校のどこを覗いても見つからない自分宛てのチョコを必死とも言える勢いで探しまくる男子高校生達の心の叫びを、うまく歌にしていた。ご存知の方も居るかもしれない。勿論、笑いを呼ぶための歌として、ショートアニメに組み込まれている。

悲喜こもごもの青春はさておき、今日私はスーパーで売っている大袋のチョコレートをぽいぽいと口に放り込んで食べていた。もぐもぐ。青色申告とのたたかいはまだ完了していないから、糖分はマストアイテムだ。ブドウ糖タブレットはもう残り少ない。明日の午後には決着をつけるぞ。

聖バレンタインの言い伝え、ゴディバ夫人の逸話、ベルギーチョコレートの高名、いろいろあるけど、私の味覚は日本のフツーなチョコレートがいちばん美味しいと感じる。私の子どもの頃に、母方の大叔母が、遠くはるばるブラジルから訪ねて来られた。おみやげは現地のチョコレートだった。ブラジル移住を国が奨励したときに家族でブラジルに渡り、大きな農園の開墾と経営に成功したそうだ。「ブラジルのチョコレート」と聞いて、私は興味津々でひとかけらを頂いた。

そのチョコレートは甘かった。もう、ものすごく甘かった。「チョコレートのふりをした砂糖菓子」という感じだった。気候や生活環境や体質体格、さらに食文化の違いなどなどが、好まれるお菓子の甘さの違いになるのかもしれない。日本で好まれるお菓子の甘さは、海外の人が「ぜんぜん甘くない」と評することが少なくない。

バレンタインと言えばチョコレート、と、イメージはセットになっている。
しかし、だがしかし。私が「これはすごく美味しいな」と思うチョコレートは、どうしようもなく溶け易い。六花亭の、白い雪原の風紋を象った「ミルクのチョコレート」で、よくある「ホワイトチョコレート」とは一線を画する味だ。じわじわ美味しい。私は好きなのだ。でも、届けたいひとは遠くに居る。送って届いて、箱を開けたら雪原じゃなくて白い沼地…なんてことになったらかなしい。一度溶けてしまうと本来の口溶けが失せて、それが風味を損なってしまう。うん、妥協できない。

…なので、昨日書いた「小さな魔法の覚書」での贈りものなのだ。キャンディサイズ、ハート型。この一年間も、いろいろ出会うものごとから、「最良の本質」を掴めるように。いつも健康で、ちょっと不調になっても「健康優勢」であれるように。…なんだか神社のお守りみたい。でもこれが、私の思いつける「最高」なのよね、今のところ。

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