安心、それは雨風寒さをしのげる寝床があること。
食べるものに不足の心配が無いこと。外に出るとき身体を適切に覆うものに不足しないこと。つまり生存できる条件を満たせること。健康に翳りの無いこと。とち狂った攻撃性に出会わないこと。そして、自分自身の心身の強さをちゃんと知っていること。
選択できる自由を持っていると知っていること。自分自身の価値は自分が決めるしかないことに自覚があること(他人の言うことは「自分事」じゃないから放っておく)。…平和な世ではこんな感じか。
不安とは、それらの「不足」であることが多い。
けど、もうひとつ大きな要因になるものがある。
「エネルギー齟齬」だ。極端な例えをすれば、江戸時代の人がいきなり現代の空気のなかに入れば、特別何事も無くても不安を感じるだろう。カルチャーショックという次元の話ではない。現代の世界に満ちて流れるエネルギーの質と波のパターンに自分のエネルギーを合わせられない。そして、理由が判然としない不安を感じる。心身共に、「地に足がつかない」感覚は本能的なものだ。「今ここにあるエネルギーを扱いきれない」不安感は軽視できない影響がある。
え、それはどうすりゃ良いのかって?
個人差がものすごく多様な問題だ。「これを本当にどうにか解決したい、それにはヒントや手引きが必要だ」と、本当に思えばちょうど良い何かに出会う。まっすぐ、本当に思えば。
いいかい? 本当に「それが必要だ。だからそれを求める」と、はっきり決意を持って思うんだよ。
もののついでに、ひとりぼっちじゃないことも、わかるようになる。健闘を祈る。「健闘する元気も落ち着きも無いよ」という状態なら、それは自分へのいたわりが不足しているのだよ。いろいろあるものをひとまずとなりに置いといて、自分の頑張りと来し方の道のよろしきを認めて褒めてあげるんだよ。
元気ってのは、そういうところから「ちょうど良いペース」で出てくるもんだからね。それをするときは、「自分てこんなだ、ダメダメだ」とかいう「黒サングラス」も外してポイするのだよ。シビアでフラットな目って、自責じゃないからね。あんなもんを混同しないように。ちゃんと進める。ちょっとずつでも、確実に進んで行ける。だから大丈夫だ。心配の先物買いをする時間があるなら今を検証するんだ…
と、上の子どもにはたまに言う。まあ参考程度にしかなるものじゃないが、「へー、ママはそーなんだ。ピンと来ないけど」くらいに記憶の隅に残れば上々だ。
写真を撮らなくなって何年も経つな、と思った今日のお題。個人的には順光の方がきれいに撮れるからそればっかりだったと思い出す。
「逆光」状態が気にされるのは写真だけじゃなかった記憶がある。実家は化粧品屋をやっていた時期があったから、シーズンごとに新しい色が出て「実際に使うとどうなのか」が試されていた。そんなときによく聞いた言葉が、「そっち座らないでこっちよ。逆光になるから」だった。確かに、化粧は逆光じゃダメだ。屋外の光か、屋内で蛍光灯の下で過ごすのか、あるいは暗めの照明なのか、どんな光の場所が主な活動の場なのかで、適切な色の使い方や顔の描き方が違う。自分で化粧するにしても、誰かの顔に化粧をするにしても、ちゃんと光が当たらないと人肌にのる色のニュアンスを掴めないのだ。新色の研修というとき、そこにいた女性達は仕事でそこにいた。昔だったから、自立心の権化みたいな、綺麗で迫力のある人が多かった。
化粧の魔法じみた視覚効果は、光があってこそのものだ。逆光のとき、暗めのトーンをのせている肌の場所はくすんで見えてしまうし、光の反射を利用して立体的視覚印象を狙ってる場所も「魔法が無効」になってしまう。じゃあ彼女たちは何かの花みたいにいつも光の方を向いていたかというとそうではなかった。ひとりひとり、その雰囲気自体が彼女たちの「綺麗の迫力」の本体だった気がする。順光だろうと、逆光だろうと、「勝負ドコロは化粧じゃない部分」だったんだろう。
逆光のシルエットが表情豊かな写真も多い。遠くからだったり、逆光だったりの写真の方が、物語を色濃く放つ気がする。
こんな夢を見た、黒澤映画にあったような…
いくつか印象深い夢を見たことはある。見た当時は何が何やらわからない流れの夢が、年月が経ってから何の象徴だったかわかるものとか。
いちばん大事にしている夢は自分の中にしまっとく。
6歳から12歳まで毎晩見た夢は酷いものだから書かない。
夢は無意識の療法だとも聞く。確かに、アレがアレでソレをアレしてしれっとアレをアレした夢を見て以来、彼奴らに余計な苦手感を持たなくなった。
大きな飛行機事故の夢を、実際に起こってしまう3日前に見てしまったこともある…この夢には顛末があったが、やっぱり軽く述べることもする気にはならない。
なんだか楽しげなものが無いな。本日はこれにて。
ドラえもんのタイムマシン。のび太くんの机の引き出しが出入り口。はて、あのタイムマシンで行く先は、同一時間ラインの未来や過去なんだろうか?
ドラゴンボールのブルマの未来は複数のパターンがあるように描かれていた。苦労を重ね、息子を過去へ送り出したブルマと、夫ベジータとめっちゃ良い関係でいる幸福なブルマ。
ターミネーターもタイムマシンみたいなのがあって、それが物語を複雑にしていた。ゲーム「エルシャダイ」なんて何回も時間を巻き戻してコンティニュー。大丈夫だ問題ない。略して大問題。
実際問題として、時間経過感覚は戻らないし、簡単に戻るなんてイヤだ。想像してごらんなさい、悪酔いして吐いたものが戻ったり、トイレでスッキリしたのに戻るとか、頭痛をやっとやり過ごして安らいでいるのにまた戻るとか、はっきり言って悪夢だ。
だいたい、いろいろと「良さげな部分」だけが注目されていることと、「イメージ的に忌避する部分」だけが注目されていることと、何かにつけて偏りを感じるのは私だけじゃ、ない、はず…。
そういう部分が取り沙汰されるとき、大抵、「自分たちは生きもの」という事実が置き去りにされている気がする。私達は皆、身体という物理的対応物に感覚フィードバックを得ているのだ。「記憶は何のためにあるの?」というよい子のギモンには、名だたる大師たちがしれっと答えを落としてくれているから、それを参照するのが良い。
タイムマシンがなくても、跳ぶべきハードルは何処にも逃げたりしない。よき思い出は思い出だから心を支えるものになる。大丈夫だ問題ない。本当に。
特別な夜、って記憶の網をザカザカ手繰っても見当たらない気がする。特別って何だろう…
多分、それは自分自身が定義するものなのだろう。
人生に大きな転機をもたらしたことや、心の中の何かを解くようなことがあったこととか、自分自身の内側に大きく作用する何かがあった夜、ってことだろうか。
だとすると、「特別な何か」が作用した日の夜なんてたくさんあり過ぎて書き切れるものではない。どうやら、私のこれまでは賑やかな波瀾がデフォルトであったようだ。
珍しい夢見の幸福、夢見と現実の間に満ちた愛情、残念で薄ら寒い現実の表出、生き死にの境界の崩壊、自己認識の変遷。…こう並べると、大した変人でもない、だいたい多くの人が縁あれば出くわすようなものごとばかりだと思うんだが…今、違う言い方を思い付いた。「特別を纏わないものはない」とかどうだろう。生きる時間は大切なものだ。「特別」と「特別じゃない」とを、くっきり分ける「特別な夜」という表現は、ともすれば日々のフラットな経験の数々を「価値に足りないもの」として軽視するような前提を含んでしまわないか? いったい何だったら「価値ある経験」で、何がどうだったら「価値も無い経験」なのか? 確かに、その後の指標となる経験もある。だからと言って、日々の生活に伴う「いつもと同じ」経験事象は価値が無いどころか「様々な力を育てる人格の筋トレ」みたいなものだ。これのどこが「特別じゃない」と言うのか。「生きる日々」をなめんじゃねえぞ…おっと、穏便な表現をしなくちゃね。
愛する人達のそれぞれが、希望を抱いて、あるいは建設的な熱量を以て「新しき」へ飛び立つのを見るとき、その日の夜は私にとって特別な嬉しさが寄り添ってくれるだろう。良い夜には養命酒じゃなくてちょっと高価な酒を持ち出すかもしれない。どうやら私の「特別な夜」とは、「嬉しさを噛み締める夜」であるようだ。誰かと一緒でも、ひとりでも。