郡司

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特別な夜、って記憶の網をザカザカ手繰っても見当たらない気がする。特別って何だろう…

多分、それは自分自身が定義するものなのだろう。
人生に大きな転機をもたらしたことや、心の中の何かを解くようなことがあったこととか、自分自身の内側に大きく作用する何かがあった夜、ってことだろうか。

だとすると、「特別な何か」が作用した日の夜なんてたくさんあり過ぎて書き切れるものではない。どうやら、私のこれまでは賑やかな波瀾がデフォルトであったようだ。

珍しい夢見の幸福、夢見と現実の間に満ちた愛情、残念で薄ら寒い現実の表出、生き死にの境界の崩壊、自己認識の変遷。…こう並べると、大した変人でもない、だいたい多くの人が縁あれば出くわすようなものごとばかりだと思うんだが…今、違う言い方を思い付いた。「特別を纏わないものはない」とかどうだろう。生きる時間は大切なものだ。「特別」と「特別じゃない」とを、くっきり分ける「特別な夜」という表現は、ともすれば日々のフラットな経験の数々を「価値に足りないもの」として軽視するような前提を含んでしまわないか? いったい何だったら「価値ある経験」で、何がどうだったら「価値も無い経験」なのか? 確かに、その後の指標となる経験もある。だからと言って、日々の生活に伴う「いつもと同じ」経験事象は価値が無いどころか「様々な力を育てる人格の筋トレ」みたいなものだ。これのどこが「特別じゃない」と言うのか。「生きる日々」をなめんじゃねえぞ…おっと、穏便な表現をしなくちゃね。

愛する人達のそれぞれが、希望を抱いて、あるいは建設的な熱量を以て「新しき」へ飛び立つのを見るとき、その日の夜は私にとって特別な嬉しさが寄り添ってくれるだろう。良い夜には養命酒じゃなくてちょっと高価な酒を持ち出すかもしれない。どうやら私の「特別な夜」とは、「嬉しさを噛み締める夜」であるようだ。誰かと一緒でも、ひとりでも。

1/22/2024, 12:49:25 AM