郡司

Open App
12/20/2023, 1:34:25 PM

ベルの音。ジングルベルかな?じんぐっべー、じんぐっべー、鈴がーなるー、と。

子ども達はクリスマスをとても楽しみにする。ケーキやプレゼント、いつもよりちょっとだけ派手なごはん。うちはキリスト者ではないので、一般的な年中行事のひとつとしてのクリスマスである。
クリスマスが本来はどういう行事なのか、一応なりと知っておいて欲しいな、と思って毎年話してはみてるんだけど、なかなか関心を向けてくれない。んもうプレゼントとケーキで頭がいっぱいのようだ…

各地での細かな違いはさておき、まっすぐにクリスマスの本質を見ると、それは「心」にある。昔あった映画にも出てきているが、「クリスマスの心」だ。その昔、我らが友(こう表現しても差し支えなかろう)イエスが隣人に良きを与え、愛の心を分かち合ったことがとても素晴らしかったので、年に一度はそれを思って同じようにしたいというねがいを記念してのクリスマスなのだ。クリスマスの核心は、神聖を振り向くことと、それに伴った愛の心を与え受け取ることにある、と私は考える。ディケンズの『クリスマス・キャロル』でも、主人公スクルージさんはクリスマス当日になると、自分の中の愛を表現できることと、それを受け取ってもらえることに、大いに幸福と安らぎを感じる。

今のところ、クリスマスという時期に、それに近い心の恩恵を受けているのは、我が家では私だけのように見える。子ども達の喜びはプレゼントとケーキ…

クリスマスが記念の時期である良いところは、互いに「分かち合うこと」を了解している期間ということだ。クリスマスの間、心が柔らかくなる人は多い。
ベルの音が、その記念期間の到来を知らせてくれる。

さて、だかしかし。私は当面、子ども達の物欲的な期待に応えなければいけない。むぅん、クルシミマス…

12/19/2023, 3:06:26 PM

寂しさ、ときたもんだ。
はて、生涯にわたって寂しい気持ちと無縁な人のあるだろうか?
誰もがどこかに抱えているであろうその想い、お題にするのも野暮な気がしないでもないけど…。AIの学習題材なら有益…かもしれない。

寂しさから受けてしまう心的ダメージは大きい。たぶん、とても大きい。生きる気力とか、生きてゆくモチベーションとか、根幹の部分に強く作用する感情だと思う。寂しさはまた、その性質故に、それを癒やすものへの敏感さを持たせる。人を愛したり、何かに邁進したり、痛みを学んだり、優しさという「質」を心の中に育んだりするきっかけをもたらすことも多いと思う。

私も昔、寂しさに取り憑かれていた時期があった。「この世の誰も、私を必要としていない。都合よく使える奴がここに居るから“役割を果たす便利をアテにして”いるだけで、別に私という存在じゃなくても、自分にとって同じ程度に便利ならそれが誰だろうがかまいやしないのが、この人達の実際なんだろう。“私”がここに居るかどうかなんてどうでもいいのだろう。私である意味も無ければ価値も無い。ならばこの世に居ることに意味も無い。…もう、やめようかな、生きるのもしんどいし…私、帰ってもいいよね?」…などという感覚に捕まっていたのだ。当時、私を「死んでいないだけの人生だけど継続してここに留まる」ことに繋ぎ止めてくれていたのは、子どもだった。子どもはまさに、私のグラウンド・アンカーだったのだ。子どもの存在が私を繋ぎ止めてくれている間に、私はその寂しさから脱出することができた。平たく言って、「自分だからこそできること」があると気づいたからだ。寂しい気持ちに、あまりにも集中してしまっていたが故に、見えていなかったものが徐々に見えてきた。
 私は、自分の両目に「寂しさがメインのVRグラス」を掛けていたのだ。自分が世界をそのようなものだと思い込むと、まるで証拠を集めるようにこの目は関連する事柄ばかりをピックアップした。それが世界のすべてではないと知らせるほんの小さな間口に、手を伸ばしてみた自分、ちょっと褒めてやらんでもない。その時の私の心は静かだった。静かな心は大いに働く。静かで、感情の揺らぎも静まっているときに、自分を取り囲むものを素直に見てみることは、きっと何か重要なことに手を伸ばせる。

昔放送していたテレビドラマで、「ウサギは寂しいと死んでしまう」とか言っていたが、たぶんウサギは死なない。人間のほうがよほど、そのリスクを持っていると思う。自分が流した涙の溜まりに沈む前に、自分の心が流す血の温みが失せる前に、静かな心で「見る」と、新しい風の中に自分を見つけられるかもしれない。

12/18/2023, 11:19:57 PM

冬は一緒に…?
鍋物と味ぽん、ニット帽と手袋、モコモコ長靴下とかき集めた毛布、ほっこりできるぬいぐるみ抱き枕や、ジェダイになれそうな「着る毛布」も良い。寒い冬だからこそ、冬しか触れないあったかいものを「良いなあ」としみじみ感じる。

子どもの頃は、冬は楽しいばかりの季節だった。雪遊びとスキーは毎日だった。クリスマスもあるし、お正月にはお年玉。何より冬休みが長めの地方なので、冬の遊びの時間はたくさんあった。

今は、曲がりなりにも「大人」だから、冬という季節にもれなく付いてくる「あれやこれやの心配」が、雪と一緒に頭の中でダンスをする。
車のタイヤを替えなくちゃとか、雪かき道具はまだ使えるかとか、ストーブの灯油買わなくちゃとか、クリスマスも何かしないととか、年越しから正月に必要なものを支度しなくちゃとか、子どもが学校で使うスキー用具のリサイズ大丈夫かとか、もういろいろと。

楽しいこと、嬉しいこと、せわしないこと、財布の中の様子見、除雪作業、みんな「冬は一緒に」やって来る。
そして、無事に冬を過ごせる事実に、自分の持ち合わせが意外と豊富であることに気づく。冬と言うと「枯れてる」とか「眠りの時期」とか、なんとなく消極的なイメージの強い季節だが、生活のボリュームはマシマシになるのが実際のところだ。地上では裸になっている森林の冬の木々も、地中の根で活発に助け合っていることが、最近の研究で確認されている。しかも、同種も異種も関係なく互いにだ。

たくさんある「冬は一緒に」。
私の暮らす街は、やろうと思えば玄関ドアいちまいの外で、山で遭難する場合と同様の環境に飛び込んでしまうこともできる。人間も、自然の者たち同様に生存のための行動を基本軸にする土地だ。だからこそ「冬は一緒」のものの密度が高く、夏よりも凝集した暮らしになる。

そんな環境だから、家の中でも温度を持つものがみしみしと寄り合う季節でもある。子ども達の温みと重量は冬にいつも一緒。素晴らしい寝相からの蹴りをクリティカルに食らったりして、私の眠りはぶつ切りにもなりがちだが、まあ仕方ない…

12/17/2023, 11:13:24 AM

とりとめもない話、正直苦手だ。最近は辛く感じるほどだ。たわいのない話は好きなんだけどね。

物事の表面にある皮の部分をずるずる引き回すだけのような話が延々と続くときは「そこを破って中に入ってみることはしないの?」と考えてしまうし、それが何時間も続く来客だと、「何かすごく迷子な気持ちを抱えているのかな?」などと考えてしまう。結局、やりとりしていて疲れてしまうのだ。まあ、疲れるのは私の勝手と言ってしまえばそうなんだが。

たわいのない話は、最近や今日あったインパクトのあったこととか、楽しかった出来事の話とか、いろいろあるけど、話している人自身が包み隠し無い気がする。だから相手と自分のやりとりな感じがする。小さな幸せの話でも、厚みと温度と、その人自身の本質が感じられて、豊かな印象さえ持つ。

とりとめのない話は、話している人自身にほとんど関係ない話が多い気がするのだ。私の周辺に限ったことかもしれないけど…もちろん、その人が「自分のこと」という前提を持って話すときは、その話は決して「とりとめのない話」ではない。大切な何かへたどり着く道筋の一部だったりするからだ。

私はババアだ。残り時間を考えるトシだ。できれば、仮面でしかない話より、「生きていること」につながっている話に、時間とエネルギーを使いたい。

12/13/2023, 1:29:25 PM

愛を注ぐが故にあるもの

職人が仕事に愛を注ぐと、いいものが創られる。農家さんが愛を注いで作物を育てると、豊かに美しく実る。音楽も芸術も、科学の研究開発も、販売の現場や土木建築の現場も、医療の現場や子ども事業も、愛を注ぐところには、長く続く「よき枝葉」が伸びてゆく。むしろ、愛がなければまったく続かなかったり、質がねじくれて大変なことになる「場」の方が多い。

「好きこそものの上手なれ」と言うが、好きなこと、愛してやまないものに注がれるエネルギーはすごいものがある。そういうところには、自覚の有る無しにかかわらず、「決意」と「情熱」がある。

新しい「もの」も、何かの分野の進化洗練も、愛を注ぐからこそ生まれてくる。
さて、私は自分自身の日々に自分の愛をちゃんと注いでいるだろうか…
今日食べたごはん、私が稲を育てたわけでもなく、収穫も脱穀も精米もせず、流通に乗せたわけでもないお米を、私はただお店で買って来て、洗って炊いただけだ。炊飯までも機械がやってくれてる。誰かが作った飯茶碗によそって、ほかほかと湯気の立つごはんを美味しく食べて、満足している。これは、ある意味で奇跡みたいなことだ。暮らしの「システム」の中にすら、誰かの愛が注がれたからこそ、私でも温かいごはんを食べることができるとしか思えない。
何人もの、何段もの、誰かが注いだ愛でできてるほかほかごはんを食べている私は「ひとり」じゃない。

自分自身をどれだけ、愛をもって処しているかを考えると何だか及ばずで申し訳ない気もする時があるけど、ありがたく「いただきます」と拝む。美味しくいただいて、幸せや安心を少しでも感じることが、注がれた愛への感謝を豊かに広げられるような気がするからだ。

Next