寂しさ、ときたもんだ。
はて、生涯にわたって寂しい気持ちと無縁な人のあるだろうか?
誰もがどこかに抱えているであろうその想い、お題にするのも野暮な気がしないでもないけど…。AIの学習題材なら有益…かもしれない。
寂しさから受けてしまう心的ダメージは大きい。たぶん、とても大きい。生きる気力とか、生きてゆくモチベーションとか、根幹の部分に強く作用する感情だと思う。寂しさはまた、その性質故に、それを癒やすものへの敏感さを持たせる。人を愛したり、何かに邁進したり、痛みを学んだり、優しさという「質」を心の中に育んだりするきっかけをもたらすことも多いと思う。
私も昔、寂しさに取り憑かれていた時期があった。「この世の誰も、私を必要としていない。都合よく使える奴がここに居るから“役割を果たす便利をアテにして”いるだけで、別に私という存在じゃなくても、自分にとって同じ程度に便利ならそれが誰だろうがかまいやしないのが、この人達の実際なんだろう。“私”がここに居るかどうかなんてどうでもいいのだろう。私である意味も無ければ価値も無い。ならばこの世に居ることに意味も無い。…もう、やめようかな、生きるのもしんどいし…私、帰ってもいいよね?」…などという感覚に捕まっていたのだ。当時、私を「死んでいないだけの人生だけど継続してここに留まる」ことに繋ぎ止めてくれていたのは、子どもだった。子どもはまさに、私のグラウンド・アンカーだったのだ。子どもの存在が私を繋ぎ止めてくれている間に、私はその寂しさから脱出することができた。平たく言って、「自分だからこそできること」があると気づいたからだ。寂しい気持ちに、あまりにも集中してしまっていたが故に、見えていなかったものが徐々に見えてきた。
私は、自分の両目に「寂しさがメインのVRグラス」を掛けていたのだ。自分が世界をそのようなものだと思い込むと、まるで証拠を集めるようにこの目は関連する事柄ばかりをピックアップした。それが世界のすべてではないと知らせるほんの小さな間口に、手を伸ばしてみた自分、ちょっと褒めてやらんでもない。その時の私の心は静かだった。静かな心は大いに働く。静かで、感情の揺らぎも静まっているときに、自分を取り囲むものを素直に見てみることは、きっと何か重要なことに手を伸ばせる。
昔放送していたテレビドラマで、「ウサギは寂しいと死んでしまう」とか言っていたが、たぶんウサギは死なない。人間のほうがよほど、そのリスクを持っていると思う。自分が流した涙の溜まりに沈む前に、自分の心が流す血の温みが失せる前に、静かな心で「見る」と、新しい風の中に自分を見つけられるかもしれない。
12/19/2023, 3:06:26 PM