郡司

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愛を注ぐが故にあるもの

職人が仕事に愛を注ぐと、いいものが創られる。農家さんが愛を注いで作物を育てると、豊かに美しく実る。音楽も芸術も、科学の研究開発も、販売の現場や土木建築の現場も、医療の現場や子ども事業も、愛を注ぐところには、長く続く「よき枝葉」が伸びてゆく。むしろ、愛がなければまったく続かなかったり、質がねじくれて大変なことになる「場」の方が多い。

「好きこそものの上手なれ」と言うが、好きなこと、愛してやまないものに注がれるエネルギーはすごいものがある。そういうところには、自覚の有る無しにかかわらず、「決意」と「情熱」がある。

新しい「もの」も、何かの分野の進化洗練も、愛を注ぐからこそ生まれてくる。
さて、私は自分自身の日々に自分の愛をちゃんと注いでいるだろうか…
今日食べたごはん、私が稲を育てたわけでもなく、収穫も脱穀も精米もせず、流通に乗せたわけでもないお米を、私はただお店で買って来て、洗って炊いただけだ。炊飯までも機械がやってくれてる。誰かが作った飯茶碗によそって、ほかほかと湯気の立つごはんを美味しく食べて、満足している。これは、ある意味で奇跡みたいなことだ。暮らしの「システム」の中にすら、誰かの愛が注がれたからこそ、私でも温かいごはんを食べることができるとしか思えない。
何人もの、何段もの、誰かが注いだ愛でできてるほかほかごはんを食べている私は「ひとり」じゃない。

自分自身をどれだけ、愛をもって処しているかを考えると何だか及ばずで申し訳ない気もする時があるけど、ありがたく「いただきます」と拝む。美味しくいただいて、幸せや安心を少しでも感じることが、注がれた愛への感謝を豊かに広げられるような気がするからだ。

12/13/2023, 1:29:25 PM