郡司

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11/23/2023, 8:39:10 AM

夫婦ね。どうなんだろうね。私は結婚もして子どもにも恵まれ、どうしようもない状況で離婚もした。
独身を貫いている友人もあれば、再婚と離婚を複数回している知人もある。
自分の経験による考えとしては、結婚はしてよし、しなくてよし、だ。私の結婚生活の状況を間近で見ていた友達は、どうやら「結婚」というものに夢を見なくなったようだ。確かに私は苦労したほうだろう。

夫婦であれたかと言うと、そうではなかった気がする。ただ一つだけ、現在に至って実感していることは、「共に歩く年月が、連れ合いと相互に信頼し、本音を伝えあって、連綿と続く日々を危なげなく進む基盤を育てる」ということだ。あくまでも「基盤」なのだ。その上に、どんなありようの彩りも乗っかってゆく。つまるところ、信頼と相互努力の連続が、「幸せな夫婦」であれるために不可欠なのだな、と考える。…まあ、「失敗的に離婚」している私が言うのは、いまいち説得力に欠けるかもだが。

なので、長年連れ添う御夫婦を尊敬する。人生の終盤に向かって仲睦まじく、明るく素敵な笑顔でいらっしゃる御夫婦を見ると、少し涙腺に来るくらい羨ましく思う。
私の結婚は「並び立つ者どうし」にはなれなかった。現実的状況を見れば離婚前も「なんだかひとりな感じ」だったが、今は「更一層ひとり」だ。

幸い、「どうか幸せな旅路であれよ」と願い想う対象が、子ども達を含め数人も居てくれてるので、孤独感に浸されることは無い。人生はどう転がるかわからないところもあるから、私の心がけ次第では、思いがけない「ギフト」が顕れる可能性もゼロじゃないかもしれない。

それでも、ひとり人生が完了するところまでゆく可能性に対しても、準備する必要がある。しかし当面のこととして、「ひとり旅をのびのびやる」のを上手になりたいところだ。

できれば誰もみな、誰かと歩く日々を大切に、理解し合う努力を喜びにしていけるのが良い。

11/19/2023, 12:52:43 PM

俄に多忙なきょうこのごろ、小さな灯火をガン見して頭を少し休めたいところなんだが、寝落ちのリスクも高そうで手が出ない「キャンドルの癒し」。

「キャンドル」と表現すると、心の癒しとか、まじめで敬虔な心とか、1/fのゆらぎとか、リラックスとか、クリスマスとか、静かながらも「温度の高めな雰囲気」が想起される。

「ろうそく」と表現すると、私の場合、仏壇とか、停電とか、子どもの手持ち花火の火種とか、栽培ハウス内の霜被害予防とか、墓参必須アイテム。とにかく、生活の匂いがぷんぷんするのだ。アンバーグリス(龍涎香)はおばあちゃんちの仏間のにおい、みたいな。

日本だけでなく、ろうそくの光はいろいろな文化のなかで、「心に直結する」部分を照らしあたためてきた。実用的なあかりとしてももちろんだが、心の方向を導く助けとしても多く用いられてきた。日本ではろうそくの灯りを「灯明」と呼び、迷わぬように、道しるべのように、その“場”に活力を加えるものとしても大切にされてきたし、世界的な各宗教の祈りのときや、よく知られているところではクリスマスのモミの木にも、大切な意味を持ってミツロウの灯りが灯された。

あの小さな灯火に、何を思うか、あるいは思わないかは、人それぞれの「個人的なもの」だと考えるが、灯火を媒介役として、真摯で静かな、大切な想いを同じ方向へ共有することはできる。多分。ろうそくの火は消えやすく儚いところもあるが、似ている・同じねがいを心に灯す人たちの「内なるつながり」は、消えやすくないし儚くもない。静かに、力強く、そのあかりを胸に護って歩いてゆく。「ちいさなともしび」は、決して小さくないのだ。

11/14/2023, 8:42:27 AM

「また会いましょう」…私は自分がこのような言い方の挨拶をしたことがあったかどうか覚えていない。
「じゃ」「またね」のような、近いうち、あるいはそう遠くないうちの再会に間口を開いておくだけのニュアンスの、短い言い方が多い気がする。「また会いましょう」という言葉は折り目正しく、私の感覚では仕事のなかか、礼節を必要とする関係性でなければ鄭重に過ぎてしまって、要らぬ距離感を醸してしまう気がするからだ。
「お前が言うと圧が高い」とか、「どうした改まって」とか、まあ総じてよろしき反応を得られないのだ。
声のトーンや質による印象なのかもしれない…

アニメ「アタシんち」のOP曲の歌詞に、「また会いましょう」が入ってる。そちらはとても良い感じの「また会いましょう」なのだ。聴くとちょっとだけ気持ちがほっこりする。…この違いは何だろう。「じょおねっつの、あっかいば~ら~」と、お母さんが歌うからだろうか?

清々しい「また会いましょう」
わくわくする「また会いましょう」
ほっこりする「また会いましょう」
プレッシャーを感じる「また会いましょう」

書いていて思ったが、「また会いましょう」という言い方は、けっこう強い約束のような響きがあるかもしれない。そして、ほっこりするときには、「縁のつながりが保持される嬉しさ」があるのだろうと思う。

遠くにある縁者に「また会いましょう」
なかなか会えない友に「また会いましょう」
人生を完了した大切な人達に「また会いましょう」
そして、ともに生きて行きたい人に「また会いましょう」

この世の現実のなかでは、自分を独りだと思いがちだ。「また会いましょう」という、ふんわり約束しているようなやりとりは、思いのほか力強いのかもしれない。

11/12/2023, 8:34:43 PM

スリル、って喰えるの?…などと思ってしまうくらい、スリルというやつには縁が無い。英単語の意味や用法では、かなり肯定的な意味合いを持って用いられる言葉らしい。私の世代だと、マイケル・ジャクソンのヒット曲「thriller」のMVイメージがかなり影響して、怖さとかホラー要素のまつわる印象が大きいようだ。

一方で、スポーツの試合の後に「今日のゲームはスリリングな展開だった」とか表現されるのも聞いたことがある。ある種の驚きのようなタイトな関心を引きつける、言わば「面白い展開」を見せた試合のときだ。じゃあ相撲の取組にもその言い回しは適用できるんでは?、と想像してみたが…似合わない表現だ。「この取組は非常にスリリングでしたね」なんて言うと、「えっ、いったい何がなんだって? で、どういう取組だったんだ」という感覚に陥る。言葉には、適した使い処があるんだな…と思う。

そして再び考える。日常のスリル、何があるだろう。
私の日常は概ね平穏だ。サプライズは基本的に無い。「スリル」というのは、「心理的底流に楽しみがある」という前提があるそうだから、要介護家族や子どもの健康状態を細かく観察しながらトラブルに対処するを目的とした「タイトな関心」ではベクトルが違う。
うん、トラブルシュートばかりだな。
正しく「スリル」を伴うなにかがあれば、気分転換や発散的なリフレッシュもできそうだけれど、落ち着いて取り組むには「ある程度まとまった時間」が必要になる。私は時間と作業の裁き方が下手なのかもしれない。

日本での「スリル」の意味するところなら、私の日常は「スリルに不足するところは無い」とも言えそうだ。要求されるフレキシビリティ、臨機応変はかなり正義。ぼんやり錆び付くヒマも無い。次々顕れる課題に、解決指向を以てクリアを目指す。幸か不幸か生涯現役の可能性もある。
thrillingだ。 ニヤリ。

11/11/2023, 8:23:58 AM

ススキ、と聞くと「昭和枯れすすき」と思い浮かぶ自分にトシを感じる。昔のテレビでけっこう聞こえてきてた。
あとは、月とススキ。お供えの団子。
子供時代、近い場所に野原があった頃は、ススキを一本とってはハタハタさせて遊んだりもした。今その場所はすべて市営住宅になって公園整備され、桜や銀杏、松のたぐいが植えられて、ススキはいない。ススキもまた、そこら辺で遊ぶ子供の友だったのだ。数年前、花屋でススキが売られていることに驚いた記憶がある。多分、「月見のしつらえ」や、生け花に需要があるからだろう。間違いなく「季節を知らせる」存在感のある植物だ。

さて、冒頭の「昭和枯れすすき」だが、まあアレな内容の歌であるんだが、りっぱにヒット曲だ。私が子供のころ、その歌にどういう印象を持ってどう反応したか思い出してみる。

貧しさに負ける…ってどういうことだろう。
世間に負ける、ってどういうことなんだろう。
この街も逐われた、「も」ってどういうことかな…
いっそきれいに死のうかって、辛いってこと?
が、だいたい中心だった。
子供心に思ったのは、「そうか、貧しさに負けちゃダメなんだな」という感覚だったと思う。この歌はとても不幸せそうだったからだ。そして、「きれいに死んじゃダメなんだな」とも思った。汚く死ねば良いという意味ではない。「きれいに」などと言う表現が、なんだかひっかかったのだ。まるで、生きた痕跡まるごと消し去るつもりみたいな。
「ふたりは枯れすすき」とむすぶ1番。独りじゃないらしいが、ふたり居てふたりともそう考えるなんて、もったいない感じ…とも思った。まあ、時代性というやつかもしれない。

現在いいトシになって、そこそこ人生の季節を過ごし、ある意味ハラも据わってきた頭でこの歌を見返すと、「貧しさから脱出、或いは少ない手持ちでもすり抜けられる方法を探さないと。世間って言うけど、世間なんて核心の無いあやふやなものを気にし過ぎちゃダメだ。逐われない場所を見つけて、せめて自分自身だけでも自分の生きることを肯定しないとね。誰が救ってくれる? 誰が代わりに生きられる?」などと思う。…ああ、自分は歳とったんだなと思う。

すすきは、ふわふわとしてくる前はつやつやしている。茎もしっかりしていて、ちょっとの力では引き切ることなんか出来ないほど強靱だ。それは枯れかけても大して変わらない。他の植物と同じく、サイクルの終わりに潔いけれど、独特の頼もしさを醸す草なのだ。

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