郡司

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11/8/2023, 1:24:16 PM

意味がないこと…ってあるのか?

昔、ある映画を見たとき、「キーッ!!私の時間を返せ」などと感じて怒り心頭に発することがあった。タイトルは伏せるが、当時映画評論家だったおすぎ氏も同じ言葉を吐き出していたので、テレビを見ながら「うんうん、そうねアレ酷いわ」と思った。

しかし、しかしなのだ。
私はその映画を見たことで、「自分の二時間を無駄にした」と怒ったのだが、同時に「生きる二時間ってものすごく貴重で大切なものなんだな」と実感したのだ。これは理屈抜きで、直覚的な実感だった。
そして、その感覚は、その映画を見なければ気づくこともなかった気がする。

今でもあの映画を見ようとはまったく思わない。
でも、「生きてる時間は自分にとって貴重なもの」という、滅多に経験できない感覚を得ることができたことには、ものすごく意味があったと思う。

「そよ吹く風が頰を撫でてゆくことにすら意味があるのに、心を貫くような哀しみに意味が無いなどということがあろうか。そんなことは絶対にない」と、古き時代の人の言う。心に、新しい発見に、自分自身を育む何かを見つけることができるものには、確かに「出会う」だけの意味があるのだ。

意味するものが、それによって自分の資質を伸ばすものが、何も見つからないでうろうろするときの私は、その時点ではまだ、それに関して「未熟者」なんだろう。
今のところ、意味を探しても見つからないまま諦めて「敗北を喫したまま」のものは、幸いにして無い。
しぶとく辛抱強く、意味を見つける。無理矢理こじつけようとしても、ほかならぬ自分を誤魔化すことはできない。

そのこと自体にも、確かな意味がある、と思う。

11/8/2023, 6:02:33 AM

あなたとわたし
わたしとあなた
あなたはわたし
わたしはあなた
あなたもなくわたしもなく
あなたはありわたしもある
えのぐをまぜたようにまったくひとつ
それぞれの個はまったく完全
おおきな創造のちからの源流
時間も存在しない
空間も存在しない
命の 存在の 動きがすべて
ひとりこどくは幻想
ひろくほどけて消える限界

ながれきたるなら逆もまた可なり
「高く上昇」して至聖
「低く下降」すれば虚し哀し

手の届く ここに
至難の概念を要さず
天の梯子も要さず

そして
あなたはあなたの
わたしはわたしの
尊きを識る

あなたはわたし
わたしはあなた
あなたとわたし
向き合いて嬉しき

11/6/2023, 12:58:12 PM

柔らかい雨には久しく出会ってない。それに、今は冬へ向かう季節で、「一雨ごとに寒くなる」冷たい雨ばかりだ。

でも「柔らかい雨」にも覚えがないでもない。暖かい季節の軽い雨模様のとき。
雨、といえば作物には日照とともに必須の日本。昔、農家をしていた知人があったんだが、雨が少なくて難儀していた年があった。畑の土が乾燥してひび割れ、家の水道からホースで長時間かけて広い畑に水を撒いてしのいでいた。ある日、やっと薄い雨雲が出て、「お湿り程度」の雨が降った。雨はすぐにやんでしまったので、知人はまた水を撒きに畑に行った。すると、わずかな雨しか降らなかったのに、畑の土からひび割れが消え、しっかりと水分を含んだ畑になっていた。
「私が人間の力で何とかしようと思って、一生懸命一日がかりで水を撒いても全然だめだったのに、ほんのちょっとの雨でこんなになるのよ。お天道様って本当にすごいわ…」と、しみじみ、なんだか厳粛な感じで言っていたのが印象深い。

私はこの知人の畑や水田の場所が好きだった。空は遮るもののひとつも無く、大きく深く、美しかった。厚い雲の隙間から太陽の光が差し込むとき、それは幾つもの「天使の階段」よろしく荘厳に光を降らせていた。育ちゆく稲穂が風の姿を教えてくれるさまは水の波打ちのようで、長いこと見ていても飽きなかった。
残念ながら知人は伴侶を亡くしてから身体を壊してしまい、農家をやめてしまったのだが、作物を育てることが好きだったから、何がしか少しずつ作っているらしい。

私の印象の中の雨は、太陽の光と稲妻と風、そして雨が生かすものといつもセットになっている。
天から降る柔らかい雨は、地の生命の求めに応えるような優しさと、絶大な力の顕れのような気がする。

うん、感謝しながらごはん食べよう。

11/5/2023, 1:34:01 AM

哀愁、もの悲しさ
正直言って、捕まりたくない気分だ。

もの悲しい気持ちはどんなときに感じるか?
自分がひとりぼっちなんじゃないかと考えてしまうとき。こういう状態のときはついでに寒い。
自分なりに頑張っているけど報われないとき。無力感ももれなく付いてくる。
たくさんのかなしみが、溢れて満ちた場所に出くわしたとき。

残念感なんて生きてりゃいつものことだ。
寂しいときはまず何か食べてみる。空腹のときと満腹のときのメンタリティの落差に刮目せよ。
頑張る方向を間違ってないか吟味しろ。
自分一人じゃどうしようもないかなしみに、どんなに小さくてもいいからいつか希望を投げ込むことを想え。それは無駄死にすることはない。
絶望感にはまっても絶望しきるな。やれることのすべてをやり尽くしたか自分に問え。
それでも絶望の闇の底に沈んだら、そんときゃその底を、ぶち破れ。
なんにしたって、やってみなけりゃ結果なんざわからん。やる前から可能性を捨てるな。

もの悲しさは寒い。
だから自分の中の熱を引っ張り出してみる。
哀愁を知ってはいるけど、友達にはなりたくない。

11/4/2023, 4:22:57 AM

いろいろな顔をしてきた、鏡の中の自分。
元気そうな顔、疲れて目の下にクマのある顔、眉間に縦の深い影のある顔、鬼のような、般若面のような顔、別人みたいな顔(!)、弱気な顔、目だけがギラギラしている薄暗い中での顔、思い巡らして気づく、美しく見えたことがないことに。

鏡の中の自分、というと、光学的に反射するものを見ているとき、つまりミラーに映る自分の鏡像が、まず思われる。物理的に構造している各器官の配置や、皮膚の血色、皮膚表面の細胞状態などなど、健康状態を推し測るためになら有用な情報がたくさん見てとれる「観測」だ。鏡に映る自分の身体状況のいろいろを、鏡を覗き込んで「自分自身の健康バロメーター」のように「評価」する。そして、何を食べてどう対処するかなどを大まかに決め、しばらく経ってまた鏡像から情報を得ては評価要素のひとつとし、改善が必要ならその実施策を講じる…まるで定期健康診察みたいだ。

多分、皆日頃のものとして、自分の鏡像から情報を得てはそれぞれが「重要」と思うものに取り組むのだろう。いずれにしても、それは「見えるかたちに表れる」自分のありようを映す「物」としての「鏡」だ。

「鏡」としてあるのは、物理的鏡だけではない。
人間と人間の関係の中で「鏡」があることがある。
本質から言うと、「自分が自分自身をどう扱っているか」を、自分以外の人間が自分に向かって映し出すときだ。これは、「自分の中の“癒す必要があるところ”」をめがけて(つまり心の中の生傷をめがけて)顕れるので、かなりキツい。
キツいし痛いし泣きたくなるし悲しくて心を閉ざしたくなるし心理的にも引きこもりたくなるんだが、しかしそれでも、痛がるだけでは損臭い。大コケして痛いし悲しい気持ちでふてくされたいけど、コケた場所には宝がある。コケて痛がらないと拾えない宝が。私はこれまでに、数えるのもバカバカしいほど何度もみっともなくコケてきたが、コケたまま拾ったものは、それらのすべてが「自分を癒すもの」だったり、「生きるためのちから」になった。

別に私は幸運なんかじゃない。どちらかと言えば波瀾含みで怪我の不運と体調不良と苦手な人間関係のデパートだった。現在の平穏は、これまでの歩みで少しづつ獲得した「結果」である実感が、確かにある。辛さを解決するための鍵や道具は、いつもぜんぶ自分の中にあった。必要な情報や知恵は求めればどこからともなく現れた。「生きるための懸命な努力」が、私を裏切ったことはなかった。

自分を自分の目で見ることはできない。だからこその「鏡」なのだろう。鏡の中の自分、それは、「今こんなだぜ! さあ、課題の解決へ向かって対処を始めようか」という、リマインダーのようなものだ。もちろん、「今すぐはムリ。まずHPとMPを回復しなくちゃ。それに、SAN値を適正にするのに一旦ここから離れなくちゃ」ということもよくある。自分を労りねぎらいながら、自分なりに無理せず少しづつ。自分の命も人生も自分のものだから、どこかの誰かが声高に「これがあるべき姿だ」なんて宣ってるフレームなんか馬糞の山に捨てておくのがちょうど良い。

みんな、自分とともに良き旅路を。鏡は状況を知らせてくれる友でもある。

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