郡司

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いろいろな顔をしてきた、鏡の中の自分。
元気そうな顔、疲れて目の下にクマのある顔、眉間に縦の深い影のある顔、鬼のような、般若面のような顔、別人みたいな顔(!)、弱気な顔、目だけがギラギラしている薄暗い中での顔、思い巡らして気づく、美しく見えたことがないことに。

鏡の中の自分、というと、光学的に反射するものを見ているとき、つまりミラーに映る自分の鏡像が、まず思われる。物理的に構造している各器官の配置や、皮膚の血色、皮膚表面の細胞状態などなど、健康状態を推し測るためになら有用な情報がたくさん見てとれる「観測」だ。鏡に映る自分の身体状況のいろいろを、鏡を覗き込んで「自分自身の健康バロメーター」のように「評価」する。そして、何を食べてどう対処するかなどを大まかに決め、しばらく経ってまた鏡像から情報を得ては評価要素のひとつとし、改善が必要ならその実施策を講じる…まるで定期健康診察みたいだ。

多分、皆日頃のものとして、自分の鏡像から情報を得てはそれぞれが「重要」と思うものに取り組むのだろう。いずれにしても、それは「見えるかたちに表れる」自分のありようを映す「物」としての「鏡」だ。

「鏡」としてあるのは、物理的鏡だけではない。
人間と人間の関係の中で「鏡」があることがある。
本質から言うと、「自分が自分自身をどう扱っているか」を、自分以外の人間が自分に向かって映し出すときだ。これは、「自分の中の“癒す必要があるところ”」をめがけて(つまり心の中の生傷をめがけて)顕れるので、かなりキツい。
キツいし痛いし泣きたくなるし悲しくて心を閉ざしたくなるし心理的にも引きこもりたくなるんだが、しかしそれでも、痛がるだけでは損臭い。大コケして痛いし悲しい気持ちでふてくされたいけど、コケた場所には宝がある。コケて痛がらないと拾えない宝が。私はこれまでに、数えるのもバカバカしいほど何度もみっともなくコケてきたが、コケたまま拾ったものは、それらのすべてが「自分を癒すもの」だったり、「生きるためのちから」になった。

別に私は幸運なんかじゃない。どちらかと言えば波瀾含みで怪我の不運と体調不良と苦手な人間関係のデパートだった。現在の平穏は、これまでの歩みで少しづつ獲得した「結果」である実感が、確かにある。辛さを解決するための鍵や道具は、いつもぜんぶ自分の中にあった。必要な情報や知恵は求めればどこからともなく現れた。「生きるための懸命な努力」が、私を裏切ったことはなかった。

自分を自分の目で見ることはできない。だからこその「鏡」なのだろう。鏡の中の自分、それは、「今こんなだぜ! さあ、課題の解決へ向かって対処を始めようか」という、リマインダーのようなものだ。もちろん、「今すぐはムリ。まずHPとMPを回復しなくちゃ。それに、SAN値を適正にするのに一旦ここから離れなくちゃ」ということもよくある。自分を労りねぎらいながら、自分なりに無理せず少しづつ。自分の命も人生も自分のものだから、どこかの誰かが声高に「これがあるべき姿だ」なんて宣ってるフレームなんか馬糞の山に捨てておくのがちょうど良い。

みんな、自分とともに良き旅路を。鏡は状況を知らせてくれる友でもある。

11/4/2023, 4:22:57 AM