このトイレ以外何もない部屋に入れられてから、数ヶ月が経った。毎日何もすることがなく、死に近づいていくのはなんだか虚しい。
とはいえ、何もものがないと、何もできない。暇にならざるを得ない。この部屋には紙と筆さえないのだ。私が何をしたと言うのだ。
思いつきを紙に起こすことも叶わない。だから何も考えないで過ごすようになり、いよいよ生きていることさえ怪しく感じられてきた。
そのとき、床に音がした。その方を見ると、小石が転がっていた。向いの牢を見ると、目をぎらつかせた人がこちらを見ていた。殺される日も近いらしい、と私は目を瞑った。
おい、と怒号まで浴びせられる。
なんですか、と私は答えた。
「か、け、!」
「……なんですか?」
「それで、、かけ!」
私はその意図に気づいて、小石を持ち、壁に文字を削り始めた。
思いつく限りの言葉を綴り始めた。
物語は無の中でこそ作られる。
風が吹き始めた。それは時が動き始めた合図だった。
大地の谷間を縫うように、風はあたりの粉塵を運んだ。偶然に芽生えた種子が、その風に乗る。種子は大地の開けたところにたどり着いた後、小さな植物が芽吹く。荒れ果てた土地が再生されていく。
人々は再び生まれ、生活が始まる。はるか西にいた人々は、風の力を頼りに東へと進み始めた。
風は時を動かす合図だ。
針は道標。最後に行き着く先を指している。
風の力で動く車はひたすらに東へと進み始めた。日が昇る方向、それを指し示すのは、ハンドルの中央に付けられた針だ。
それが向く先に進むんだ……
ばあさまに言われたから、こうして彼はハンドルを握り何の当てもないまま、砂漠の道を進む。前に行く人々がどうなっているかはわからない。これは使命だから不安も何もない。
西から東へ進むその過程こそが時間だと気づくのはいつのことだろう。そして、針が時の流れをも表すことになるとは、誰も思わないだろう。
彼は私の変化にすぐに気づく。疲れてたら黙って布団に連れてってくれるし、悲しいことがあったら横にきて頭を撫でてくれる。
私は何にも言ってないのに。
こんな人に出会ったことなかった。まるで魔法のように私の心がわかる。
ある日、私は会社の上司と一緒に帰った。入社したばかりの時、ちょっと好きだった人だった。飲み会の後で、私は二次会を提案したが、
「彼氏いるんだろ? 悪いよ」
と帰っていく。そんなところも好きだった。
帰ってきた私を見て彼は、突然に外に出る準備を始めた。
「今からどっかいくの?」
準備を終えた彼は一言言った。
「しばらく出て行くよ」
私は思わず口を塞いだ。いや、私は何も言ってない。心が発しているんだ。
何ヶ月も過ぎて、私は寂しさでいっぱいになった。心から彼に会いたいと思った。
思いは窓から部屋を出て、どこかを彷徨う。
あなたの元へ。
その次の日、彼は帰ってきた。真っ直ぐな眼で私を見つめて、微笑んだ。
私は思いが行きついたその先を抱きしめた。
君にキスした。その瞬間、世界が変わった気配がした。
いろんな心配事、身近なものだったり、遠くの国の人たちのこととか、僕はくよくよ悩んでばかりだった。でも、今はそんなの気にならなくなって、愛とか真実が、きっとそこにあるって信じられた。
ここがどこだって構わない、本当は公園の広場の真ん中にいたけど、ここがお花畑だって、二人で将来住むお屋敷だって、反対に、何にもない砂漠だって、どこだっていい。
情熱が人を突き動かしている。炎のように、メラメラと湧き立つ心がある限り……なんて僕は馬鹿にしていたけど、その意味もわかった。教えてくれた人ごめんなさい。あなたの言う通りでした。
僕は君とひとつになって、世界はそこだけになった。
やがて、崖っぷちに僕たちは立っていることに気づいて、思わず抱き合った。
あたりは殺風景では表せないほど、無の空間になっていて、見下ろすと溶岩が吹き上げていた。
キスなんかしなきゃよかった。
街中にぽつんと咲いていた花を愛でていたら、通りかかった子どもがその名前を教えてくれた。
どこかで聞き覚えがあると思ったら、僕はずっと前にその花の名前を教えてもらったことを思い出した。
どうして忘れていたんだろう? 大切なことだった気がするのに。
そのときも僕に話しかけたのは幼い子どもだった。でも、今と違って目線が同じ高さだった気がする。その子は塞ぎ込んだ僕の肩に手を置いて言ったんだ。
「勿忘草だよ。覚えててね」
振り返ると、女性が僕の肩に手を置いている。あのときと同じように。
僕は思わず、だけど確信して、こう言っていた。
「思い出したよ。君のこと」
これからは、その君の泣き顔を忘れないように生きていくよ。
そして、恐る恐る近寄ってきた我が子を強く抱きしめた。