前の夏から雇われた庭師の彼に、精一杯気取って挨拶をする。
こんにちは
その瞬間に、風が爽やかに駆けていった。
さらさら擦れる、葉ずれと絹ずれ。
彼は歳よりよっぽど幼い顔に目一杯の笑みを浮かべた。
「こんにちは。今日も綺麗だね」
なんて、恥ずかしげもなく言えるだなんて、将来は大物のタラシになりそうね。
絆されそうに、いいえ、もう絆されているのを隠すためにも私は気取って気取って繕わないといけない。
剪定鋏を取り出して、ぱちん、バチンッと切っていく。この辺りは背が低くて枝も細い子だけど、その代わり枝々が密に茂っている。長袖ではあるけど薄手の生地では、枝が刺さってさぞ痛いことでしょう。
それでも、それを隠して彼は笑う。鼻歌を歌いながら、時折、話しかけてくれながら。
そしてまた、綺麗だね、と。
ほんとう、将来がおそろしい。いつか貴方もいなくなってしまうことも含めて。
でも、それも仕方がない。寿命が違うのだから。今まで何人もやってきて、同じだけ去っていった。
その人達全員に、懸想して、誰も気づかない。
それも、仕方がない。
私の隅々まで手入れをする彼に、私の心を知る術はない。
仕方がない。仕方がないの。だって、貴方は庭師、人間で、わたしはただの紫陽花だもの。
世界が終わるとしたら、なんて馬鹿な空想をしてなんになる。
そんなこと、現代の科学では予測不能で、予測できたとしても回避不能だからだ。
そうでなくとも、人ひとりの短い命の中でそんな危機に遭遇する可能性は如何程のものか。
けれど、ふと、頭に霞がかかる。
世界が終わるというのはどういうことだろう、と。
温暖化で人間が住むに適さなくなることを言うのか。それとも、宇宙人に侵略されて居場所がなるなることを言うのか。
どちらもないなと笑い飛ばした。
では、世界の終わりとは?
考えて、考えるのはただひとりのこと。
この世界が終わることには実感はなく、恐怖もなく。
だけど、君がいなくなるのは想像するだけで辛く、指先が冷えていく感覚がした。
世界が終わるときというのはきっと、君がいなくなるときだ。
それなら、最後の最期まで側にいたい。どんな関係でもいい。ただ隣に寄り添って。でも、できれば、冷えゆく手に温もりを与えられる存在として。
知り合ってから一五年が経った。
それからいろいろあって、付き合って、結婚して、子供が生まれ、広い家に引っ越して、また子供が生まれ、犬も二匹増えた。
みんなが起きていれば、賑やかで温かく感じる家も、夜が更けるほどに冷たく静寂に支配される。
音もなく走る秒針すらうるさく感じてしまう侘びしさの中、思い出すのは昔のこと。
今からすればとても狭い部屋に二人で住んでいた。部屋のあちこちに転がる、くちゃくちゃに丸められた紙屑。大学ノートにボールペン、そんなアナログスタイルでないと作業できないせいで、気に入らないものたちはどんどん千切られ放られゴミへと変わっていく。
傷だらけのアコースティックギターを模索して、譜面へと落とし込んでいく横顔。
お金はないけど、夢はあった。温もりもあった。確かな繋がりもあった。
では、今はどうだ。
誰もが知る人となった彼は、何かに理由をつけて帰ってこない。その理由がどこまでがほんとうで、どこからが嘘なのか、私は知っている。知っていて、知らないふりをする。
だって、子供たちはまだ小さい。父親が大好きで、父親を誇り、信じている。
私一人が我慢すれば何事もなく過ぎていく。
我慢すればいい。目を閉じて、耳を塞いで、心に殻を被せて。
それでも、ふっと、特にこんな静かな夜は押し込めていたものが溢れ出てしまう。
こうなるのなら、あのままの方が良かった。貧しく苦しくとも、それでもあの狭い部屋の方がずっとずっと、間違いなく幸いに満ちていたのに。
教室でふざけていたら何かを壊してしまった、なんてのはおバカな男子あるあるだと思う。
ふざけるのも、物を壊すのも良くない。普通に悪い。だけど、それを素直に認めて謝れるなら、その点は褒めてやれるところではないか。
それなのに、素直に認め謝った方だけが叱られ、しらばっくれた方は逃げ果せてしまう。この世、と言うと主語が大きすぎるが、正直者が馬鹿を見るという言葉があるのは事実だ。
騙されるほどの演技だったのか、事勿れの怠惰か。高確率で後者なのだけど、息子には「でもね、」と諭す。
正直者が馬鹿を見る世の中でも、嘘は良くない。不正はいつかバレる。バレなければいいとか、金を握らせて黙らせるとか、そんな穢い考えは一刻も早く消えてしまえ。
ぷぅ、ぷぅ、鳴る音。寝息か、それともいびきか。
バンザイをする格好。頭が大きすぎて、腕が短すぎて、グーに握った手は頭の天辺まで届かない。
ぷくぷくまぁるいほっぺ。ぺちゃぱな。髪は薄くて、これが大人ならほぼハゲだ。
アンタもそうだった。みんなそうだった。生まれたときはみんな、猿か亀かあとなんだかもうひとつ何だったかに似ていて、バンザイをして寝る。嫌なことも悲しいことも知らないと、腹が減ったら泣いて、気に入らないと泣いて、本能で愛想を振りまいて、寝る。
人はいつまでこうなのか。いつから、こうでなくなるのか。
いつから、こんな風になってしまった。
斜に構えて、悲観して、人のせいにしてばかりの嫌な人間にはなってくれるなよ。
そう頬をつついた。柔らかな肉が愛おしくて、何度も何度も指を弾ませた。寝息が、少し音を変えた。ぶぅ。止めろと言ったのかもしれない。