『まだ知らない世界』
「…今日のお題は…『まだ知らない世界』、か」
私は久しぶりに『書く習慣』というアプリを立ち上げた。
毎日ランダムに出題されるお題にあった小説を書いて投稿し、
相手から「もっと読みたい」と言ってもらえる。
たったそれだけ、単純なアプリだ。
なんでも三日坊主の私が、楽しいと感じた。
それは趣味のない私にとっては「まだ知らない世界」だった。
幸せに溢れた、魔法のような世界だった。
現実は暗く、決して楽しいことばかりではない。
嫌なことがあれば苦しい。何も周りが見えなくなって、寂しい。
いつの間に現実に飲まれた私は、この存在を忘却していた。
『書く習慣』。
私にとって久々のお題は、『まだ知らない世界』。
アプリを立ち上げるたびに、この世界は変わっている。
昨日のお題とは全く違う小説が立ち並ぶ、知らない世界に。
きっとこのアプリは、私に前を向かせてくれる魔法だ。
下を向いた日には、気まぐれにここに来よう。
そうしたらきっと、きっと誰かが。
「もっと読みたい」
そう言ってくれるだろうから。
「さてと、いっちょ書きますか」
この世界の私は「あめ。」で、現実とはまた違うけれど。
「あめ。」もまた、私なのだから。
私の投稿を待っていてくれる、ごく僅かの人達へ。
「ただいま、お久しぶりです」
『春爛漫』
カキーン、と心地よい音が鳴り、野球少年たちの歓声が上がる。
春休みに入ったばかりの小学生達のはしゃぎ声が聞こえる。
桜は満開になり、花見客がぞろぞろとやってくる。
そんな春爛漫な河川敷の真ん中、
いい歳した成人男性がスーツ姿のまま寝転がっていた。
その名も四条健一、僕である。
暖かい春風が頬を撫で、優しい日差しが僕を照らす。
あまりの心地よさに現実を忘れ、眠りに落ちそうになって…
そこまできて現実に引き戻される。
あぁ、明日からニート生活かぁ。
僕はさっき、本当についさっき、職を失った。
クビ宣告をくらった直後、自暴自棄になってこうしている。
まぁブラック企業だったし、いっか。
…いやよくない、ただでさえ家賃カツカツなんだぞ僕。
「こんにちは、お隣いいですか?」
「へっ!?あ、あぁ…どうぞ」
突然すぎて変な声が出たが、
僕に声をかけてきたのもスーツ姿の男性だった。
僕とそう歳は離れてないように見える。
「僕が言えたことじゃないですけど、何してるんです?」
僕の隣に腰掛けながら、笑い混じりに聞いてきた。
まぁそりゃそうだ、こんな状況なんだから。
「いやー、お恥ずかしいんですけどね…」
「今さっき会社クビになって、自暴自棄になってました」
言いながらやっぱり少し恥ずかしくなる。
「まじすか!?僕もです!」
「え、ええ…!?あなたもですか?」
「はい、さっきクビになりました」
「なんか、現実逃避中?って感じです」
僕もそのまんま、同じ理由だ。
そんな偶然あっていいのだろうか。
…まぁあったからこうなっているのだが。
「あ、どうせだし名刺交換でもしますか?」
「僕、元〇〇商社営業部の谷口です」
文脈ってもんがなさすぎる…って、〇〇商社?
「え、僕も元〇〇商社です…」
「え、そうなんですか!?」
「はい、元〇〇商社事務部の四条です」
「これ、名刺」
谷口さんの名刺を受け取る。
確かに、見慣れた会社の名前が刻まれていた。
「わ…偶然ってすごいですね」
「本当ですね」
「この際仲良くしましょう!LINEやってます?」
「やってます、交換しますか」
春は別れの季節。そして、出会いの季節。
良い会社に出会えるように、谷口さんと一緒に頑張るか。
春風が強く吹いて、桜の花びらを僕らの方へ飛ばしてきた。
『七色』
「おはよう、昨日雨すごかったね」
「ほんと、全然寝れなかったよ」
「今日はお家でのんびりしようか」
「そうだね」
雨上がりの朝、昨日の大雨などまるでなかったかのような青空。
真夏の太陽は燦々と輝き、窓辺からリビングを照らしていた。
「はい、朝ごはんどうぞ」
「ありがとう」
バターの乗ったシンプルなトーストにカラフルなサラダ。
色とりどりの野菜は我が家で収穫したものだろう。
「ん、プチトマト美味しい」
「ね、美味しくできた」
二人で一緒に育てたプチトマトだ。
可愛がってやった。名前はぷち。
…ちょっと、食べるのは心が痛いけど。
そんなカラフルなトマト達を見て、ふと思った。
「そういや、虹出てる?」
「いやー、さっき見たけど出てなかった」
なんだ、せっかく雨上がりだってのに虹は無しか。
まぁ雨が降れば絶対に見れるってわけでもない。
今日は少し運の悪い日なのだろう。
「ちょっと水やりしてくるよ」
「わかった、行ってらっしゃい」
「あとで手伝いに来てね」
「はーい、食べ終わったら行く」
君が髪を風になびかせながらベランダに向かうのを見て、
俺はサラダをかきこんだ。
ちゃんと味わえる程度に急いだ。美味しかった。
「あ、ちゃんとご馳走様言った?」
「言った言った」
「ほんとにー?」
こちらに疑念を向けてきた君は僕に詰め寄るような仕草をして、
その拍子に水の入ったジョウロが傾いた。
ジョウロから出た水は、俺のサンダルに直撃。
「冷たっ!?」
「え、ごめんごめん!」
いいよいいよと言おうとしたが、
「…あ、虹」
思ったことが先に口走ってしまった。
「あ、ほんとだね、ちっちゃい虹」
俺たちの足元には、小さな虹が架かっていたのだ。
「きれいだね」
そう言ってる君が綺麗だよ。
なんてキザなセリフは言えたもんじゃない。
「ね、虹見れてよかったよ」
大きな虹こそ見えなかったものの、
小さな幸せは身近に転がっていたようだ。
前言撤回、今日は運のいい日だ。
『記憶』
「おはようございます、篠沢さん」
「おはようございます、看護師さん」
「お熱測らせてもらいますね」
「はーい、わかりました」
貴女に体温計を渡すと、要領よく体温を測り出す。
この生活にもすっかり慣れてくれて、私としては嬉しい。
「ん、36度2分です」
ピーッ、ピーッと機械的な音が体温を測り終わった事を知らせ、
貴女はいつも通り、ふわふわとした声色で答えた。
「平熱ですね、ありがとうございます」
体温計を受け取り、カルテに体温をメモした。
「そうだ篠沢さん、今日は風見さんがいらっしゃるみたいです」
「…風見…さん?」
「…ほら、この間果物をお持ちになさった」
「あぁ、あの方ですか、わかりました」
…また、風見さんの記憶がなくなっていた。
篠沢さんの中で、風見さんの記憶がどんどんと薄れているらしい。
風見さんは、篠沢さんと交際されていた男性。
…今となっては、されていた、に変えた方がいいのだろうか?
とても人柄の良い方で、私とも仲良くしてくださって、
本当に、本当に素敵な方だ。奪いたいとは思わないけど。
「午前中に来るそうですから、そろそろですかね」
「あら、もうそんな時間なんですか?」
「もう9時です、今日はお寝坊さんですから」
それでも、私は祈る他ない。
私は貴女の記憶を呼び起こす魔法が使えるわけではない。
コンコンッ、とドアから軽快なリズムが鳴った。
「あら、早速来たみたいですよ」
「そうですか、ぜひ通してください」
「この間の果物のお礼をしなければいけないですね」
ドアを開けると、作り笑いの風見さんが立っていた。
私でもわかる、少しつついたら壊れてしまいそうな仮面で。
「篠沢さん、お久しぶりです」
「今日はゼリーを持ってきました、ぜひお召し上がりください」
ありがとうございます、と微塵の悪気もなく篠沢さんは笑う。
いえいえ、と風早さんは悲しそうに笑う。
きっと、篠沢さんの記憶の底に彼はいる。
私はそれを引っ張り上げる手伝いしかできないけれど。
篠沢さんの隣に立つのをやめた彼の為。
今日も記憶障害と戦う篠沢さんの為。
今日も明日も、私は彼女のそばにいる。
題名『もう二度と』
突然だが、俺には前世の記憶がある。
何故そんなものがあるかはわからない。
前世も、今世と殆ど変わらない生活。
…というよりは、今世に酷似した生活だった。
家族構成も一緒。俺、弟、母の三人。父はいなかった。
俺の名前も柊斗。弟の名前も楓真。母の名前も穂乃果だった。
身長170前後、体重は40台前半、ぼさぼさの黒髪の短髪。
ひょろひょろの軟弱で無愛想な大学生。全て一致していた。
ただ前世と全く違うことが一つ。
「柊斗兄さん、ご飯できたよ」
「兄さんの好きな肉じゃが!食べる?」
「さすが楓真、食べる食べる」
弟が、今日も健やかに生きているということだ。
…思い返せば、馬鹿だったなぁ。自分。
前世も今世と変わらず、母さんは俺の二十歳の誕生日に死んだ。
俺は弟にひどく嫌われていた。
「兄さん!遊ぼー!」
「うるさい、勉強してんだって」
「えー、サッカーしようよー」
「黙れ!向こうで勝手にやってろ!」
「…はーい、ごめんなさい」
母さんが生きてる間はそんな会話ばっかりだった。
いい職に就かなきゃこんな環境じゃ生きられないと思って、
自分のために必死だった。
結局、母さんは死んだ。過労死だった。
弟は部屋に引き篭もるようになった。
楓真は母さんが大好きで、俺のことが大嫌いだったから。
俺はそれでもなお、弟を養うのが面倒でしかなかった。
コンビニで適当に飯を買って、部屋の前に置く。
それだけを繰り返してた。
部屋の中で泣いたり、腕を切ってたりするのも知っていた。
知らないふりをした。
弟は、近いうちに部屋で首を吊って死んだ。
前世の俺は最低人間。
だから、必死に今世で償おうとしてる。
結局母さんを守ることはできなかったが、
まだ、楓真は俺の隣で幸せそうに笑ってる。
「兄さん!勉強落ち着いた?」
「うん、今は暇だよ」
「じゃあ久々に、サッカーしない?」
「…久々だね、いいよ」
もう二度と、この笑顔を失わないように。
俺は今日も、楓真の隣で息をする。