あめ。

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3/25/2025, 3:06:56 PM

『記憶』



「おはようございます、篠沢さん」

「おはようございます、看護師さん」

「お熱測らせてもらいますね」

「はーい、わかりました」


貴女に体温計を渡すと、要領よく体温を測り出す。
この生活にもすっかり慣れてくれて、私としては嬉しい。


「ん、36度2分です」


ピーッ、ピーッと機械的な音が体温を測り終わった事を知らせ、
貴女はいつも通り、ふわふわとした声色で答えた。


「平熱ですね、ありがとうございます」


体温計を受け取り、カルテに体温をメモした。


「そうだ篠沢さん、今日は風見さんがいらっしゃるみたいです」

「…風見…さん?」

「…ほら、この間果物をお持ちになさった」

「あぁ、あの方ですか、わかりました」


…また、風見さんの記憶がなくなっていた。
篠沢さんの中で、風見さんの記憶がどんどんと薄れているらしい。
風見さんは、篠沢さんと交際されていた男性。
…今となっては、されていた、に変えた方がいいのだろうか?

とても人柄の良い方で、私とも仲良くしてくださって、
本当に、本当に素敵な方だ。奪いたいとは思わないけど。


「午前中に来るそうですから、そろそろですかね」

「あら、もうそんな時間なんですか?」

「もう9時です、今日はお寝坊さんですから」


それでも、私は祈る他ない。
私は貴女の記憶を呼び起こす魔法が使えるわけではない。


コンコンッ、とドアから軽快なリズムが鳴った。


「あら、早速来たみたいですよ」

「そうですか、ぜひ通してください」
「この間の果物のお礼をしなければいけないですね」


ドアを開けると、作り笑いの風見さんが立っていた。
私でもわかる、少しつついたら壊れてしまいそうな仮面で。


「篠沢さん、お久しぶりです」
「今日はゼリーを持ってきました、ぜひお召し上がりください」


ありがとうございます、と微塵の悪気もなく篠沢さんは笑う。
いえいえ、と風早さんは悲しそうに笑う。

きっと、篠沢さんの記憶の底に彼はいる。
私はそれを引っ張り上げる手伝いしかできないけれど。

篠沢さんの隣に立つのをやめた彼の為。
今日も記憶障害と戦う篠沢さんの為。
今日も明日も、私は彼女のそばにいる。

3/25/2025, 4:48:08 AM

題名『もう二度と』



突然だが、俺には前世の記憶がある。
何故そんなものがあるかはわからない。

前世も、今世と殆ど変わらない生活。
…というよりは、今世に酷似した生活だった。

家族構成も一緒。俺、弟、母の三人。父はいなかった。
俺の名前も柊斗。弟の名前も楓真。母の名前も穂乃果だった。
身長170前後、体重は40台前半、ぼさぼさの黒髪の短髪。
ひょろひょろの軟弱で無愛想な大学生。全て一致していた。

ただ前世と全く違うことが一つ。


「柊斗兄さん、ご飯できたよ」

「兄さんの好きな肉じゃが!食べる?」

「さすが楓真、食べる食べる」


弟が、今日も健やかに生きているということだ。


…思い返せば、馬鹿だったなぁ。自分。

前世も今世と変わらず、母さんは俺の二十歳の誕生日に死んだ。
俺は弟にひどく嫌われていた。


「兄さん!遊ぼー!」

「うるさい、勉強してんだって」

「えー、サッカーしようよー」

「黙れ!向こうで勝手にやってろ!」

「…はーい、ごめんなさい」


母さんが生きてる間はそんな会話ばっかりだった。
いい職に就かなきゃこんな環境じゃ生きられないと思って、
自分のために必死だった。

結局、母さんは死んだ。過労死だった。
弟は部屋に引き篭もるようになった。
楓真は母さんが大好きで、俺のことが大嫌いだったから。

俺はそれでもなお、弟を養うのが面倒でしかなかった。
コンビニで適当に飯を買って、部屋の前に置く。
それだけを繰り返してた。

部屋の中で泣いたり、腕を切ってたりするのも知っていた。
知らないふりをした。
弟は、近いうちに部屋で首を吊って死んだ。


前世の俺は最低人間。
だから、必死に今世で償おうとしてる。
結局母さんを守ることはできなかったが、
まだ、楓真は俺の隣で幸せそうに笑ってる。


「兄さん!勉強落ち着いた?」

「うん、今は暇だよ」

「じゃあ久々に、サッカーしない?」

「…久々だね、いいよ」


もう二度と、この笑顔を失わないように。
俺は今日も、楓真の隣で息をする。

3/24/2025, 11:32:01 AM

題名『曇り』



「今日の都心は曇りになるでしょう」


スーツに着替えながら、テレビがそう言うのを小耳に挟む。
カーテンを開けると、空一面に灰色が立ち込めていた。
顰めた顔が鏡に映った。皺、増えたなぁ。


「降水確率は午前も午後も30%前後です」

「折り畳み傘を持ち歩くと良いでしょう」


曇りというより、曇りのち雨といったところだろうか。
面倒だなと思いつつ、カバンに折り畳み傘を放り込んだ。


「それでは次のニュースに移ります」

「昨夜未明、東京都〇〇区で強盗殺人事件が…」


うわ近所じゃん、物騒だなぁ。
昨日の夜パトカーがうるさかったのはそれか。


「警察は犯人の行方を追っています」


早く捕まえてくんないかな、普通に怖いし。
…ちょっとチャンネル変えよ、憂鬱な話題ばっかだ。


「リポーターの〇〇さん、お味はいかがでしょうか?」

「そうですね、やっぱりお出汁の味の広がりがすごくて…」


「…!」


私は思わず息を呑んだ。
レポーターの薄っぺらな感想が全く耳に入らなかった。


そこに映っていた店内は、店長は、料理は、
全て私の息子、陸翔のものであった。

気づけば私の頬には涙が伝っていた。
私は仕事のプレッシャーに押しつぶされ、子育てを疎かにした。

息子のことを褒めてやれなかった。
わけもなく厳しく叱る日もあった。
暴力を振るう日もあった。


なのに息子は、陸翔は。


「店主さん、この料理はどのようにして思いついたのですか?」

「そうですねぇ…」

「これは、幼い日に食べた母親の手料理の味を元にしています」

「だから、母親のおかげかもしれませんね」


本心かどうかはさておいて、
画面の向こうでそうやって笑っていた。


ごめんね、陸翔。
料理人の夢を馬鹿にしてごめんね。
ごめんね。ごめんね。
何度も心の内で謝った。


画面が切り替わり、テレビは星占いを始めた。
それと同時に、スマホが震えた。



『また母さんの手料理食べに行ってもいい?』



そんなメッセージが届いた。



『また食べにおいで』



気づいた頃にはそう送っていた。

ありがとう、の可愛らしい犬のスタンプが返ってくると共に、



「今日の一位はてんびん座のあなた!」

「今まですれ違っていた誰かと距離を縮めるチャンス。」

「ラッキーアイテムは、母親の手料理です」



都合よく、まるで私が作ったみたいな占いが流れた。

外の天気は曇り。多分、曇りのち雨。
てんびん座の私の心の中も、曇り。
だけど今、曇りのち晴れに予報が更新された。

3/22/2025, 11:14:42 AM

題名『bye bye…』



「おはよう、遥花」


さっきのニュースで、桜が満開になったって言ってたよ。
今日は絶好の花見日和だよ。
次の休みに遥花の好きなスナック菓子でも持って行こうか。
ついでにコンビニでアイスコーヒーを買って行こう。
ガムシロップを二杯にミルクを一杯。
遥花のアイスコーヒーの黄金ブレンド、美味しいよね。


「食パン焼く?焼かない?」


あぁ、ごめん訊くまでもなかったよね。
バターだけ塗って焼いて、後からはちみつがお気に入りだよね。
それとも今日はジャムの気分?
お気に入りのブルーベリーのジャムも仕入れてるよ。


「コーヒー?紅茶?」


これも訊くまでもなかったか。
いつも通りホットコーヒー淹れておくね。
このペアのマグカップ、いつ見ても可愛いよね。
俺が緑にクマのマーク、遥花が青にペンギンのマーク。
青の方にはガムシロップ二杯入れておくよ。
…あぁそうだね、ミルクも忘れないように入れておく。


「はい、遥花のための特製プレート、かんせーい」


バター先塗りはちみつ後がけのトーストに、
とろっと半熟の目玉焼き。
添え野菜はカラフルなプチトマトと塩ゆでブロッコリー、
デザートには昨日買った苺をつけてやった。
飲み物は遥花ブレンドのホットコーヒー。


「桜、こっからでも見えるかな?」


ベランダに出て辺りを見回してみる。
電車が走る川沿いに、ビルで隠れてはいるが桜並木が見えた。


「んー、あんまり綺麗には見えないか」


残念だな、遥花にも見てほしかったんだけど。
とりあえず、カーテンは開けて行くね。
遥花、桜大好きでしょ。


「はい、ちゃんと食べなよ」


写真立ての中で笑う遥花の前に、特製プレートを置いておく。
我ながら、美味しくできたと思うんだ。


「じゃあ、そろそろ電車乗り遅れちゃうから」

「行ってきます、仕事頑張ってくるね」

「…ばいばい」


ほんとは全部わかってるけど、
もう日課のようになってしまったこの会話をやめられずにいる。
やっぱりまだ認めたくないのだ。
遥花がもう二度と、おかえりを言ってくれないなんて。

いつものように、研究し尽くした遥花好みの朝食を作って、
遥花がおいしい、って笑うのを見たいんだ。

遥花がちゃんと食べないせいで、
さっき作ったこの朝食は俺の夕食になるんだけどさ。
冷め切ったコーヒーにはガムシロップが溜まっちゃうから、
混ぜなきゃとても飲めなくて、なんだか虚しくなる。

ねぇ遥花。
またおかえりって言ってよ。
この家は一人だと広すぎて、寂しいんだ。



「…いってきます、遥花」


もう一度、遥花にいってきますをした。
いってらっしゃい、って聞こえた気がしたような。