『記憶』
「おはようございます、篠沢さん」
「おはようございます、看護師さん」
「お熱測らせてもらいますね」
「はーい、わかりました」
貴女に体温計を渡すと、要領よく体温を測り出す。
この生活にもすっかり慣れてくれて、私としては嬉しい。
「ん、36度2分です」
ピーッ、ピーッと機械的な音が体温を測り終わった事を知らせ、
貴女はいつも通り、ふわふわとした声色で答えた。
「平熱ですね、ありがとうございます」
体温計を受け取り、カルテに体温をメモした。
「そうだ篠沢さん、今日は風見さんがいらっしゃるみたいです」
「…風見…さん?」
「…ほら、この間果物をお持ちになさった」
「あぁ、あの方ですか、わかりました」
…また、風見さんの記憶がなくなっていた。
篠沢さんの中で、風見さんの記憶がどんどんと薄れているらしい。
風見さんは、篠沢さんと交際されていた男性。
…今となっては、されていた、に変えた方がいいのだろうか?
とても人柄の良い方で、私とも仲良くしてくださって、
本当に、本当に素敵な方だ。奪いたいとは思わないけど。
「午前中に来るそうですから、そろそろですかね」
「あら、もうそんな時間なんですか?」
「もう9時です、今日はお寝坊さんですから」
それでも、私は祈る他ない。
私は貴女の記憶を呼び起こす魔法が使えるわけではない。
コンコンッ、とドアから軽快なリズムが鳴った。
「あら、早速来たみたいですよ」
「そうですか、ぜひ通してください」
「この間の果物のお礼をしなければいけないですね」
ドアを開けると、作り笑いの風見さんが立っていた。
私でもわかる、少しつついたら壊れてしまいそうな仮面で。
「篠沢さん、お久しぶりです」
「今日はゼリーを持ってきました、ぜひお召し上がりください」
ありがとうございます、と微塵の悪気もなく篠沢さんは笑う。
いえいえ、と風早さんは悲しそうに笑う。
きっと、篠沢さんの記憶の底に彼はいる。
私はそれを引っ張り上げる手伝いしかできないけれど。
篠沢さんの隣に立つのをやめた彼の為。
今日も記憶障害と戦う篠沢さんの為。
今日も明日も、私は彼女のそばにいる。
3/25/2025, 3:06:56 PM